植村直己著「エベレストを越えて」

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 再読(再々読?)。ヒマラヤのトレッキング・コースのことをいくつか確認したくて、この本を開いてみたら、やっぱり面白くて、ついつい最後まで読み切ってしまった。これからは、これまで読んで面白くて手元に残しておいた、こういった本をもう一度読みなおしながら老後を過ごすのもいいかもなぁ・・・。

 日本人として初めて登頂を果たした、1970年の日本登山隊参加、翌年の国際隊参加(南壁挑戦、仲間割れで失敗)、1981年の自ら組織して冬季登頂に挑戦(失敗)した、3回のエベレスト(現地名サガルマータ、中国名チョモランマ)登山を、振り返っている。わが国随一の冒険家の内面や人間性が、文章のはしばしにうかがえる。植村直己は、この原稿を書いて2年後、アラスカ・マッキンレー(現在名はデナリ)に消えた。

 印象に残ったのは、この3回いずれもシェルパまたは隊員に犠牲者が出たこと。同じころエベレスト滑走を行った、三浦雄一郎らのスキー隊でも、シェルパ・ポーター多数が犠牲になる事故も起きていた。

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 私(ピカテン)が、エベレストのベースキャンプ(5,360m)を間近に見下ろすカラパタール(5,550m)までトレッキングしたのは、2008年の秋。路線バスの終着点ジリの町から1カ月がかりで往復した(固定ページ「ヒマラヤ徘徊1カ月」参照)。その時撮りためた写真を整理して、小さなフォトブックをつくることを考えている。

  歩いたコースは、日本登山隊がふもとからベースキャンプに向かってキャラバンした道筋とかなり重なっている。もっとも1970年当時は、まだジリまで自動車道路は通っていなかったようで、植村たちの日本登山隊はカトマンズからジリに至る途中のラムサンゴという町から歩き始めた。途中からは、ルクラ、ナムチェ、ペリチェ、ロブチェ、アマダブラなど、私も泊まったり通過した懐かしい地名や山の名前が出てきて、かなり薄れてきていた15年前の記憶がよみがえってきた。

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裏庭に春が来た

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今朝裏庭を見ると、たった1輪だけど、クロッカスが花開いていた。

今日、今春初めてセルフ洗車場を利用。さらに冬タイヤを夏物に交換した。

松田 武著「自発的隷従の日米関係史 日米安保と戦後」

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 普天間や辺野古の米軍基地問題をはじめ、地球規模の外交・国家間紛争などでも、なんで日本は何でもかんでもアメリカの言いなりにならんっくちゃならんのだ?と苛立たしい思いをすることが多い。ベトナム戦争、アフガン・イラク侵攻、中南米諸国への干渉や侵攻・・・その度に日本はアメリカにへつらう姿勢に終始してきた(参照)。一方で、アジア諸国に対しては、上から目線の態度が、時に居丈高とも映る(ピカテンの個人的感想です)。

 著者はアメリカ外交史を専門とする研究者で、京都外国語大学前学長。米国に従属するようになった日本とアメリカの関係史を、淡々とひも解いている。本のタイトルそのまんまの内容。

 戦後、米政府とりわけ米軍部は、沖縄を日本からの戦利品と捉えていた。「在日米軍が日本本土と沖縄に半永久的に駐留する権利を、米国の世界戦略上の死活的権益として位置づけ」、沖縄の施政権返還後も「在日・在沖縄米軍基地の自由使用を死守する」ことにこだわった。

 ただし、米国は自らを従来の西欧帝国主義とは異なる「反植民地主義の国」と位置付け「領土不拡大」の原則を標榜していた。そのジレンマに陥りそうな時に、1947年ヒロヒト天皇から米側に「天皇は米国による琉球諸島の軍事占領を望む」とするメッセージが寄せられた。このメッセージによって、沖縄の米軍駐留を、日本側から米国に「依頼」したという印象を第三者に与えることに成功した。「(第三国からの)帝国主義批判をかわすこともでき、米国の『反植民地主義国』としての自己像とアイデンティティも守ることもできた」。著者はこの天皇からのメッセージの発出源は米国だった、と考えている。

 1972年の「核抜き・本土並みの沖縄返還」は、①沖縄米軍基地の自由使用が再確認され、自由使用が日本本土の米軍基地にも適用されることになった②米国は沖縄からの核兵器の撤去を約束したが、非常事態が発生した場合は、沖縄および日本本土への核兵器の再搬入と貯蔵について、日本は「ノー」と言わないことを日本の総理に約束させた。この秘密裏の約束によって、1960年の日米安保条約で合意された、事前協議制は形骸化した。

  米国では(日本でも)一定期間を経過した、外交文書を含む公文書が機密扱いのリストから外され、公開されている。しかし、日本関係の文書はしばしば非開示となる。その理由は「日米関係ならびに日本の国内政治への影響が懸念されるため、機密扱い(非公開)にして」と、在ワシントン日本大使館から米国立公文書館に強い要請があったからだという。これが日本の政治の実像(カタチ)なんだろうなぁ~。

地吹雪と佐藤厚志著「荒地の家族」と震災12年と

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 ちょっと前のことになるが、先月26日、わが屯田・新琴似地区は、ときどき前が見えなくなるほどの地吹雪だった。返却期限をこの日に迎えていた本を返すため、吹雪が弱まる一瞬を見計らって片道1.5キロほど離れた図書館に歩いて出かけた。往きは大したことなかった吹雪が、還りには前方10メートルが真っ白になるほど強まっていた。

 オホーツク地方の田舎(今は遠軽町の一部になっている丸瀬布町金山)に住んでいた子供のころのことを思い出しながら吹雪の中を歩いた。小学校1年生のとき、畑の中の道路を歩いていて、目の前が何も見えなくなるほどの吹雪に遭遇したことがあった。

 今回は住宅街の中の道路だから、遭難の心配はなかった(自宅では娘たちが「おとーさん、遭難してないかい」と冗談を言ってたらしいけど)。ある程度の降雪と横殴りの風を予想して、頭からがっちり防寒着を着込んでいたから、寒くもなかった。はるか昔を思い出して、なんとなくうきうきした気分で吹雪の中を歩いた。

 歩いているうちに急に猛烈な尿意を催した。トシのせいで頻尿と尿洩れに悩まされるようになっている。やむなく途中のコンビニに飛び込んだ。トイレを借りて、ほっとして、そのまま何も買わないで店を出るのは申し訳ない。でも、必要な物が思い浮かばない。ふと目についたのが本売り場に並んでいた文藝春秋3月号。「芥川賞発表 受賞作2作全文掲載」の赤い文字。

 価格1300円はトイレ使用料としては高すぎるが、小説2冊分と考えれば安いだろう。と、例によってビンボー症まるだしの浅はかな計算をして購入した。帰って井戸川射子の「この世の喜びよ」を読んでみたが、数ページで放り出した。文学的というのか詩的いうのか定かでないが、文体が私にはなじめなかった。小説など無理して読むべきものでもない。

 しばらく放り出しておいた文藝春秋を、なんとなく開いてみたのは今月11日。もう1つの芥川賞受賞作、佐藤厚志の「荒地の家族」を一気に読み終えた。東日本大震災を経験した東北・亘理町に住む、10年後の家族を描いた小説だった。主人公の妻は震災2年後に病死、その後、再婚した相手にも去られる。災害の記憶が通奏低音となっている、現在の日常生活である。

 この日のテレビは、朝から震災12年のニュースばかりだった。少々あきあきしていたからあまりニュースは見なかった。「荒地の家族」が「震災小説」であることにも思いが及ばなかった。道新夕刊の土方正志氏の一文「仙台発 震災編集者走る 東日本大震災12年と文学」で、「ちょうどの日」に「ちょうどの小説」を読んでいたことをはじめて(あらためて?)認識した。連想能力の劣化と、尿洩れ頻尿、いずれもニューロンのつながりが著しく悪くなっている証拠だろう。

ロビン・ダンバー著「ことばの起源 猿の毛づくろい、人のゴシップ」

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 この本の要約は、著者自身が最終章で書いている。そのまま引用する。

「①霊長類において、社会的な群れの規模は、種の新皮質の大きさによって制限されるらしい②人間の社会的ネットワークの規模は、同様の理由から約150という値に制限されているらしい(顔を見れば名前が言えるような集団のサイズは、著者の名前をとってダンバー数と呼ばれている。人のダンバー数は150くらい)③霊長類が社会的な毛づくろいに費やす時間は、毛づくろいが群れの結束においてきわめて重要な役割を果たしているため、群れの規模に正比例する④言語は人間の中で、我々が大規模な群れに必要な毛づくろいの時間を割けなくなったことから進化し、社会的な毛づくろいに取って代わったことが示唆される」

 要約すると、言語は猿の毛づくろいの延長から生じた。猿や類人猿は肉体的接触(毛づくろい)によって集団の連帯を維持している。人間の祖先も同様に肉体的接触によって集団を維持していたが、より危険な環境で生きるため、より大きな集団をつくる必要が生じた。その際、肉体的接触の不足を補うものとして、声による接触、つまり言語を用いた。

 訳者(松浦俊輔)はあとがきで、ダンバーの説を下のように解説している。ダンバー説は「言葉のない時代と言葉を得た後の時代のあいだを埋める筋書きとして、1つの可能性を示したものといえるだろう」。

 言葉誕生は、意思を伝えるという言葉本来の用途よりも、群れに属する者どうしの親密度を上げるための接触が重要なきっかけだった。今でも、人は会話の大半をゴシップで費やしているのだそうだ。ゴシップは人の連帯感涵養に資するところ大なり、というわけだ。

 物的証拠が残らないため、言葉の起源をめぐっては、さまざまな仮説が可能だ。「毛づくろい、人のゴシップこそが言葉を生んだ」とする、ダンバーの説はあくまで仮説の1つでしかないが、進化人類学のさまざまな実験や人類学的見地を駆使して、なかなか説得的に展開している。読み物としてもエピソードや研究事例が豊富で面白い。

 この本は1990年代に著された。2016年になって新装版が日本で出版された。中身は文字の誤りを訂正した程度で、初版本とほとんど変わっていないらしい。

 そのため、人類が直立二足歩行を始めたことと、森林から草原に移動したこととが、パラレルに記述されている。体熱を下げるために立ち上がった(立ち上がることで直射日光を浴びる体表面積が減る、暑く熱せられた地表面から頭部を遠ざけた、など)と読める部分もある。これは、直立歩行を始めた原因・理由としては、すでに過去の、ほぼ否定された説。

 21世紀になって、人類は樹上生活をしていた時にすでに直立二足歩行を始めていたことが、化石によって明らかになっている。草原に移動したのは、直立歩行を始めてから何百万年も後のこと。今は「立ち上がったことで、両手が自由になり、食物を家族に運ぶことができるようになった」とする説が、それなりの支持を集めているらしい(照)。

 人類が他の生物に比べて圧倒的な繁栄を誇っているのは、文化力によるところが大きい。私(ピカテン)は、その文化力の中でも言葉の発明と火の使用は、その他の文化発展の基礎になっていると思っている。

 群れの拡大、言葉の発明、脳(大脳皮質)の拡大、消化器官の縮小、火の使用、調理、肉食、生息域の拡大―は互いに密接に関係した、ひと繋がりの出来事だったのではないだろうか。もちろんそれぞれの出現時期は異なっていただろうけれど。

 火の使用はホモ・エレクトスの時代には始まっていたことが、地面の焼けた跡や火打石で確認されいる(異論もある)。ホモ属誕生の二百数十万年前からサピエンス誕生の20万年前までの、どこかの時点で火を使い始めたようだ。言葉の始まりもそのころだったのではないだろうか?

 有名な解剖学者のフィリップ・リーバーマンがかつて「ネアンデルタール人の喉頭(肺からくる気管の先端)の位置が母音を作り出すには高すぎる。だからネアンはしゃべれなかった」と主張した。ネアンデルタールは言葉によるコミュニケーションが出来なかったから、サピエンスとの競争に敗れた、とする解釈である。

  しかし、その後、完全なネアンの骨がイスラエルで見つかり、彼らの喉頭はサピエンスとほとんど変わらない位置にあることが分かった。この本でも触れられているが、「言葉を持たないネアンデルタール」説は、今ではあまり信じられていない。

戦争と謀略と科学

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 少し前のことだが、NHKの「フランケンシュタインの誘惑」で、英国の天才数学者アラン・チューリングのことが取り上げられていた。

 チューリング(1912~1954)は、のちのコンピューターにつながる、情報処理の基礎的論文を書くなど、大きな業績を残した。第2次世界大戦中は暗号解読に従事し、当時は絶対解読できないとされていたナチスの暗号機エニグマの解読に成功した。

 エニグマの解読成功は、英国にとっては「極秘中の秘」。解読に成功したことをナチス側に知られないよう、ドイツのUボートの位置を掴んでいても攻撃を加えず、偵察機が来るのを待ち、偶然に発見したように偽装してから攻撃した。偵察機の飛来が遅れて逆にUボートから攻撃され、多数の英国兵がみすみす犠牲になったこともあったそうだ。

 エニグマ解読成功の事実は、戦後もUltra Secretに指定され秘密にされた。チューリングたちは、チャーチルから「金の卵を産んでも決して鳴かないガチョウたち」と呼ばれた。戦争に勝った英国は、エニグマ数千台をドイツから没収、それを解読不可能な暗号機と偽って、インドやケニアなどの旧植民地や関係国にばらまき、各国の動きを密かに傍受していた。

 さすが、スパイと謀略の本家である。

 戦後、数学界に復帰したチューリングは、暗号解読の件を一切口にせず、最近までその功績はまったく公になっていなかった。それどころか、彼は40歳のころ同性愛者として逮捕され、定期的に女性ホルモンを注射されるなどの「治療」を受けさせられていた。そして41歳にして謎の急死を遂げる。公式には青酸カリによる自殺とされたが、親族などは異を唱えていた。

 番組のタイトルは「強制終了」。な~んか意味深だねえ・・・

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