この本の要約は、著者自身が最終章で書いている。そのまま引用する。
「①霊長類において、社会的な群れの規模は、種の新皮質の大きさによって制限されるらしい②人間の社会的ネットワークの規模は、同様の理由から約150という値に制限されているらしい(顔を見れば名前が言えるような集団のサイズは、著者の名前をとってダンバー数と呼ばれている。人のダンバー数は150くらい)③霊長類が社会的な毛づくろいに費やす時間は、毛づくろいが群れの結束においてきわめて重要な役割を果たしているため、群れの規模に正比例する④言語は人間の中で、我々が大規模な群れに必要な毛づくろいの時間を割けなくなったことから進化し、社会的な毛づくろいに取って代わったことが示唆される」
要約すると、言語は猿の毛づくろいの延長から生じた。猿や類人猿は肉体的接触(毛づくろい)によって集団の連帯を維持している。人間の祖先も同様に肉体的接触によって集団を維持していたが、より危険な環境で生きるため、より大きな集団をつくる必要が生じた。その際、肉体的接触の不足を補うものとして、声による接触、つまり言語を用いた。
訳者(松浦俊輔)はあとがきで、ダンバーの説を下のように解説している。ダンバー説は「言葉のない時代と言葉を得た後の時代のあいだを埋める筋書きとして、1つの可能性を示したものといえるだろう」。
言葉誕生は、意思を伝えるという言葉本来の用途よりも、群れに属する者どうしの親密度を上げるための接触が重要なきっかけだった。今でも、人は会話の大半をゴシップで費やしているのだそうだ。ゴシップは人の連帯感涵養に資するところ大なり、というわけだ。
物的証拠が残らないため、言葉の起源をめぐっては、さまざまな仮説が可能だ。「毛づくろい、人のゴシップこそが言葉を生んだ」とする、ダンバーの説はあくまで仮説の1つでしかないが、進化人類学のさまざまな実験や人類学的見地を駆使して、なかなか説得的に展開している。読み物としてもエピソードや研究事例が豊富で面白い。
この本は1990年代に著された。2016年になって新装版が日本で出版された。中身は文字の誤りを訂正した程度で、初版本とほとんど変わっていないらしい。
そのため、人類が直立二足歩行を始めたことと、森林から草原に移動したこととが、パラレルに記述されている。体熱を下げるために立ち上がった(立ち上がることで直射日光を浴びる体表面積が減る、暑く熱せられた地表面から頭部を遠ざけた、など)と読める部分もある。これは、直立歩行を始めた原因・理由としては、すでに過去の、ほぼ否定された説。
21世紀になって、人類は樹上生活をしていた時にすでに直立二足歩行を始めていたことが、化石によって明らかになっている。草原に移動したのは、直立歩行を始めてから何百万年も後のこと。今は「立ち上がったことで、両手が自由になり、食物を家族に運ぶことができるようになった」とする説が、それなりの支持を集めているらしい(参照)。
人類が他の生物に比べて圧倒的な繁栄を誇っているのは、文化力によるところが大きい。私(ピカテン)は、その文化力の中でも言葉の発明と火の使用は、その他の文化発展の基礎になっていると思っている。
群れの拡大、言葉の発明、脳(大脳皮質)の拡大、消化器官の縮小、火の使用、調理、肉食、生息域の拡大―は互いに密接に関係した、ひと繋がりの出来事だったのではないだろうか。もちろんそれぞれの出現時期は異なっていただろうけれど。
火の使用はホモ・エレクトスの時代には始まっていたことが、地面の焼けた跡や火打石で確認されいる(異論もある)。ホモ属誕生の二百数十万年前からサピエンス誕生の20万年前までの、どこかの時点で火を使い始めたようだ。言葉の始まりもそのころだったのではないだろうか?
有名な解剖学者のフィリップ・リーバーマンがかつて「ネアンデルタール人の喉頭(肺からくる気管の先端)の位置が母音を作り出すには高すぎる。だからネアンはしゃべれなかった」と主張した。ネアンデルタールは言葉によるコミュニケーションが出来なかったから、サピエンスとの競争に敗れた、とする解釈である。
しかし、その後、完全なネアンの骨がイスラエルで見つかり、彼らの喉頭はサピエンスとほとんど変わらない位置にあることが分かった。この本でも触れられているが、「言葉を持たないネアンデルタール」説は、今ではあまり信じられていない。