古人類趾巡礼9 ピテカンとホビット(インドネシア編)

 ■日本の空港は悪徳両替商よりあくどい

 関空からインドネシアに向けて発つ際、ふと思い立って手持ちの五千円札を空港内でインドネシア通貨に両替した。キリの良いところで八十円足して、五千八十円とし四十万ルピアを受け取った。

 インドネシアに着いて手持ちの米ドルを現地通貨に両替した。五十$が五十万ルピアになった。

 これを比較すると、関空では五千円余が四十$の価値しかなかった勘定。当時のドル‐円レートは一$が九十円前後。五千円なら五十五$以上の価値があった。これをインドネシア通貨に換算すれば、五十五万ルピア。つまり関空(の両替屋)は、五十五万分の四十万、つまり三割近く低い相場で両替をしていたことになる。

 インドネシアに限らず、開発途上国の両替屋は油断がならない。レートをごまかす、あとでカネを数えたら札の枚数が不足していた、なんてことはよくある、とガイドブックには悪徳両替屋に注意するよう、旅行者に警鐘を鳴らしている。

 でも、手数料を三割も盗るあくどい両替屋なんてお目にかかったことがない。日本の空港には、悪徳両替屋も顔負けじゃないか!?

 ■オランウータンに会いに行く

 マレーシアの首都クアラルンプールから空路、インドネシア・北スマトラの州都メダンに飛び、そこから百キロほど内陸に位置する小さな村ブキ・ラワンにバスで向かった。ブキ・ラワンはオランウータンの棲むグヌン・レウセル国立公園の入り口にあり、オランウータンのリハビリ施設も兼ねたフィーディング・センターがある。

 十九世紀末、ジャワ原人の化石を発見したオランダ人解剖学者のデュボアが、ヒトと類人猿の中間種つまり「ミッシング・リンク」発見のねらいをつけたのもこのスマトラだった。

 今でこそ、ヒトの誕生はアフリカが有力視されているけれど、当時はアジアこそが人類誕生の有力候補地とされていた。なかでもヒトによく似た大型類人猿のオランウータンがいる東南アジアは有望だった。デュボアは陸軍に志願し、軍医となって当時オランダの植民地だったインドネシアに渡りスマトラに赴任した。

 軍医としての仕事の合間をぬって、彼は人類化石の発見に時間と労力をかけたが、成果を挙げられないうちにマラリアにかかり、ジャワ島の病院送りとなってしまった。そこで再開した化石発掘でデュボアは、「ピテカントロプス」と呼ばれたジャワ原人を見つけることになる。

 ブキ・ラワンに着いた翌日から一泊二日のジャングル・トレッキングに参加した(参加費用六十ユーロ)。運がよければ野生のオランウータンに会えるかもしれない。参加者は十二人、私以外は欧米からの客だった。

 気温は三五度を超えていた。暑い。それよりも、このむしむしする湿気はたまらない。前夜のスコールで山道はぬかるみ、斜面はつるつる滑りやすい。道路脇の蔓草や木の根につかまりながら、ガイドの案内で熱帯雨林の急斜面を上り下りした。靴もズボンも泥だらけ。

 六時間ほどかけて、その日のキャンプ地に着いた。キャンプ地は小さな流れの脇にあり、近くに小さな滝壺もあった。参加者は滝壺に飛び込んで泥と汗を流した。

 あとで分かったことだが、このキャンプ地からブキ・ラワンの村まではさほどの距離ではない。いくつかの急峻な山を上り下りしたから、かなり遠くまで来たように思っていたが、村の近くのジャングルをぐるぐる回っていただけだった。それに六時間の行程といっても、実際に歩いていたのは三時間くらいなものだった。残り半分は休憩時間だった。この気温と湿気の中では休み休みでないと行動できない。

 このジャングル・トレッキングでオランウータンの親子二組に出会った。

 オランウータンの専門家らしいガイドのロヴェルトが先行した。一組目のオランウータン親子は山道から離れた大きな木の枝にいるのを見つけた。ニンジンを使って七~八メートルのちかくまでおびき寄せた。オランウータンの母親は子どもを少し離れた枝に残したまま近づき、太い木の幹に身を隠すようにして腕を伸ばし、木の枝にはさんだニンジンを取った。

 二組目もロヴェルトが見つけた。

 一行の先を歩いていたロヴェルトが何か大きな声で叫んだ。間もなくわれわれの進行方向から、のっそりと大きなオランウータンが現れた。

「うしろに下がれ!」

 ガイドが後ろの参加者たちをふり返り、慌てたように叫ぶ。私たちは道の脇に下がりオランウータンに道を譲った。ロヴェルトたちはニンジンを見せびらかせながら、オランウータンを我々とは反対側の脇道に誘導しようとした。しかし、このオランウータンは餌よりも人間の方に興味を引かれたらしい。あるいは私たちの持っているバッグにおいしい物が入っているのを知っていたのかもしれない。ロヴェルトのニンジンを横目で見ながらも、こちらに向かって進んでくる。

 ガイドのエディが泡をくったように叫ぶ。「バック、バック! 引き返せ」。来た道を駆け足で引き返し、少し離れたところから脇道に入った。迂回して元の道にもどったら、ロヴェルトたちがオランウータンをまっすぐ道路に沿って誘導したらしく、もうその姿はなかった。

 オランウータンは肉食獣ではないから、ライオンや熊のように人を餌として襲うことはないが、なにしろ怪力の持ち主である。食べ物欲しさに抱きつかれでもしたら大変らしい。

「彼らの前では、バッグを開けないように。さもないと餌をくれると思って近寄ってくる」とロヴェルトが解説した。

 ロヴェルトは上手な英語を話す。どこで英会話を習ったの?と聞いたら、冗談まじりに「俺の先生はオランウータン。彼らが教えてくれた」

 ■スマトラのジャングルで水産放浪歌をがなる

 キャンプ地の河原には体長一メートル余りのトカゲが出てくる。食事時には残飯を求めて小さなサルたちも集まってきて、近くの木の枝で騒ぎ立てる。われわれのテントは小川のほとりにあった。テントと言ってもビニール屋根があるだけ。壁なしのヤブ蚊出入り自由。農家のビニールハウスにも劣るテントで、厚さ三ミリ程度の敷きマットが一枚配られただけだった。

 日が暮れてしまうと周囲は真っ暗、何もすることがない。焚き火のそばに集まり、ガイドの音頭でゲームやら歌やらをやらされた。現地ガイドたちの、持って生まれた優れたリズム感に舌を巻いた。

 次いで、参加者がめいめい自国の歌なんかを披露するハメになった。国歌やそれなりに有名な歌をうたう人が多かった。お金持ちのドイツ人夫婦は断固歌うことを拒否した。

 俺の場合は「ハテ・・?」。井上陽水はカラオケじゃないと歌えないし、「さくら」や「君が代」じゃ、かったるい・・・・。

 で、ふと思いついたのが、学生のころいい気になってアホみたいにがなっていた「水産放浪歌」。まわりの手拍子ももらって大声で歌い出したのはいいけれど、すぐに歌詞をすっかり忘れていることに気づいた。

 でも、まわりはインドネシア人のガイドと、欧米の参加者ばかり。あとは近くに出てくるモンキーかオオトカゲ、あるいはジャングルの中のオランウータンくらいなもの。ナニ日本語なんぞ分かるわけがない。

 覚悟を決めて「心たけくも鬼神ならず・・・」のあとは、口からでまかせ。

「♪男と生まれ~て・・むにゃむにゃ・・・♭シキソ~クゼェ~ク~ゥウ♯ク~ソクゼ~シ~イキ・・・」

 ところどころに般若心経なんぞも混ぜて、ついに歌い切った。なにせ調子の良い、勇ましいメロディーだから、けっこううけた。

「さくら」にしろ、「君が代」にしろ、どーせ歌詞なんぞきちんと覚えてないから、何を歌ったってデタラメを歌うしかなかったんだから、選曲としてはあながち間違いではなかったと自負する。

 それにしても、歌詞はデタラメ、音程も調子はずれ。

 以前インドをうろついていた時、安ホテルの地下の、お粗末なバーで一杯ひっかけていたら、ちょっとヤバそうな男二人から「一緒に飲もう」と誘われたことがある。こういうお誘いは、たいがい断らない主義である。

 二人は義兄弟で、レストラン、バー、レジャー施設など手広く事業をしているようだった。日本でも、ちょっと前までモテモテだった青年実業家。

 ポケットに入る大きさの、画像と音声、録音もできる小型パソコン?を取り出して、エロビデオを見せてくれた。さらに互いの友情の記念にと高級ボールペンをくれた。そして「なんか日本の歌をうたってくれ」。

 会社勤めのころ、スナックに行ったら恥も外聞も捨ててカラオケをうたっていた。それも井上陽水を。

 それを思い出して「傘がない」をうたった。もちろんカラオケなんぞない。男は勝手にそれを録音した。再生して聴かされた。聴けたもんじゃなかった。ほとんど念仏みたい。男たちはきっとこれをどこかで再生して聴かせ、「日本の歌だ」とか紹介しているのだろう。あ~ぁ、ニッポンの恥!

 思えば小さなころから歌は苦手だった。歌どころか、話すこと自体がヘタクソだった。これはわが家系に共通する弱点である。わがご先祖さまもきっとオツムの中の言語野が未発達だったに違いない。

 岩波の「シリーズ進化学5ヒトの進化」の第五章「言語の起源と進化」に、以下の記述がある。

 ――ホモ・サピエンスに直結する種は、歌をうたう霊長類であったのだろう。

 つまり、言語の起源は「歌」であるとする説である。この説によると、ある種の動物が発する警戒音などと同じように、わが祖先は状況に応じて音列を発した。たとえば

「medita」は(あの子に食わしてやりな)

「ikatube」は(オレに食わしてくれよ)

「kamete」は(あの子に石をやりな)

をそれぞれ意味するものとする。

 偶然に「medita」と「kamete」には同じ音韻「me」を含む。すると「me」は分節化され、意味する状況の共通部分「あの子」に対応づけられる。おなじように「ka」は「give」を意味するようになる・・・云々。

 鯨や鳥は状況に応じて複雑な「歌」をうたう。われらのご先祖さまも「歌」をうたっていた。そこから単語が分離し、言葉に進化していった・・・学者センセイのご高説だけど、ホントかねえ???

 言語の誕生は、てっきり単語が先で、そのあとに、それが組み合わされて文が作られたとばかり思いこんでいたから意外だった。少なくとも私の外国語の勉強は、単語から始まった。

 ■ゴム樹液

 トレッキング二日目。前日下った急な崖を地面に張った木の根っこを伝うようによじ登る。アタマからパンツの中まで汗でびしょびしょになる。「絞るような汗」というけれど、首に巻いた汗拭きタオルを絞ったら本当に汗がしたたり落ちた。

 スマトラ島は日本より少し大きい面積を有し、北西から南東に延びる細長い島の背骨の部分に、たくさんの火山が連なっている。海岸は海からいきなり急な断崖がそびえ立ち、平野部は極めて少ない。その分、山が深く、ゾウやトラ、今ではアフリカでさえ数が少なくなったサイまで生息している。スマトラゾウ、スマトラタイガー、スマトラサイは、いずれも島嶼化してアフリカのものよりずっと体が小さい。

 これらの野生動物に出会うには、一週間以上のトレッキングに参加して、山奥深くまで分け入らなければならない。

 ジャングルの中には、表皮に切り込みが入れられたゴムの木があちこちにあり、ストローを伝って流れ落ちるゴムの樹液を皿に受け止めている。そのホットケーキ状になったゴム樹液を集めて石油缶より少し大きめのブロックに固めたものが、週一度のブキ・ラワン郊外の市場に集められる。

 市場ではじめてこれを目にしたとき、これが何なのか見当も付かなかった。何か腐ったような臭いが漂い、その外見からホタテ貝のような物を発酵させて固めたのだろうか、などと想像した。

 居合わせた村人に聞いても要領を得ない。ほとんど英語を話せる人がいなかった。ようやく若い男のカタコトが聞き取れた。「ラヴァ」。ゴムだった。村人がジャングルからゴム樹液を集め、塊にしたものを業者に売りに来ていたのだった。一キロ二万ルピアで引き取ってもらえるのだそうだ。一塊が二十キロとすると四十万ルピア、四千円くらいになる。

 買い付け業者はゴムの塊を大きな山刀で中まで切り裂いて品質を確かめ、台秤で重量を量る。切り口からどろりとした白い液体が流れ出た。

 ■川下り

 出発から二時間、この日の最後のアクティビティであるラフティングの出発地点に到着した。着いてみると、キャンプ地を後から出発したはずのドイツ人夫婦とスイス人老嬢が先に来て、私たちを待っていた。聞けばあの急な崖は登らず、キャンプ地の裏側を流れる川沿いに歩いてここにたどり着いたのだそうだ。

 キャンプ地からラフティング出発地まで、川沿いに歩けばわずかな距離。トレッキング・コースはいくつもの小さな、だけど急な山や谷を越え遠回りするように設定されていた。一泊二日の観光客用トレッキングは国立公園になっているジャングルのほんの入り口付近を歩いていただけだった。

 先の三人は体力を考慮してショートカット・コースを選択したのだろう。

 ラフティングは大きなゴム・チューブに二人一組となって川を下る。ほとんどの参加者はカップルかグループで来ていたから、それぞれが同じチューブに乗った。単独で参加した私は、これまた一人で来ていた、スイス人老嬢と組まされた。

 ゴム・チューブには、前に座った人を後ろの人が股間に挟むようにし、両脚は二人ともチューブの上に乗せるようにして乗り込む。

 この姿勢、カップルならいいだろうけど、老嬢とはいえはじめて会った女性を股間に挟むのは、どーも落ち着かない。こちらのお粗末なイチモツを前の老嬢の腰のあたりに押しつけているような感じ。なんとか接触を避けようと、チューブの上の両脚に力をいれて踏ん張っていたら、ふくらはぎから太ももにかけての筋肉がつってしまった。

 前日も浅い川の中を裸足で歩いていたら、足の指が引きつったようになったし、夕食後にテントの周りで座ってゲームをしていたら、足がつりそうになった。水分不足だったのかもしれない。

 のんびり流れを下っていくと、川岸に建物の土台だけがいくつも残っているのが目に入った。

 ブキ・ラワンは二〇〇三年に大きな鉄砲水に見舞われ、川岸の民家はことごとく押し流された。この洪水で住民二百人が死んだ。この村には二百五十戸の住民が住んでいたから、一家に一人は犠牲になった計算だ。

 すでに復興は済んでいた。川岸から少し離れた小高い場所に同じ造り、同じトタン屋根の復興住宅が建てられ、川岸には観光客目当ての茅葺き土産物店が軒を並べている。

 流れに沿って川岸には人が歩くだけの道路もあり、地元の人たちが大きなゴム・チューブを背負って上流のラフティング出発地に向かって歩いていた。観光客が乗って下ったチューブを運び上げているのだった。

 ■アチェでTsunamiのものすごさを実感

 二〇〇四年十二月二六日に発生したスマトラ沖地震による大津波は、バンダ・アチェの住民二十四万人を飲み込んだ。海岸から五キロ内の地域は、ほとんどの建物が崩壊し流失した。

 あれから五年余り、アチェの被害の跡と復興の様子が知りたくて、ブキ・ラワンから夜通しバスを乗り継ぎ、まだ暗い早朝の四時前にアチェに着いた。前日までこの地で地震津波の国際的な研究会が開かれていた。ジャカルタに派遣されている元北大教授のKMさん(地震火山学)もこの研究会に出席していた。

 明るくなるのを待ってKMさんの泊まっているホテルに連絡したら、間もなくジャカルタ行きの飛行機に乗るため空港に向かうという。近くにいたベチャ・マシーンをつかまえると、ホテルに駆け込んだ。KMさんは奥さんと共にホテルのロビーで待っていてくれた。

 大急ぎでアチェの情報を仕入れる。見るべき場所や会うと参考になる関係者を教えてもらう。

津波によるがれきは、すでに片づけられ、新しい住宅が建ち並んで町は復興していた。その住宅街の中に、一千トンクラスの大型船が〝座礁〟したままになっていた。津波以前は、ここから三、四キロ離れた波止場に停泊し、町に電気を送電していた「発電船」だった。

 「陸に登った船」はもう海に戻る術もなく、発電船としての役目も停止していた。訪れる見物客を目当てに、近くには数軒の屋台・土産物店が店開きしていた。

 もう一つは、すでに世界中にニュースで配信されて有名になった「住宅の上の漁船」。この船は惨事の際に、五十九人を乗せて港から内陸側に運ばれてきて、一般住宅の屋根の上に無事ランディング=座礁した。

アチェの津波痕・インドネシア

 ツナミ(Tsunami)の記憶を後世に伝えるべく、この漁船はそのまま保存され、近くには見学者用の展望スロープまで建設されていた。この展望施設、漁船に近すぎて写真を撮る上では邪魔でしょうがない。

 スマトラ島の先端に位置するアチェで、どうして大きな津波が発生したのだろう、と思って地図を見たら、この付近の海底地形が湾状になっていた。アチェの町はその湾の一番奥にある。

 海の上には左右に伸びた腕状の隆起の一部が島となって現れているだけだから、一見すると湾とは見えないが、海の底は津波を増幅しやすい地形のようだ。

 その島の一つ、サバン町のあるプラウ・ウェ(ウェ島)に渡った。サバンはインドネシアの最西に位置する。島は多分、佐渡島くらいの大きさではないだろうか? さらにウェ島から百メートルほど沖の小島ルビアに渡ってバンガローに一泊した。

ウェ島からルビアへ

 ウェ島とルビア島の間は、深さ十数メートルの海で隔てられている。ツナミが襲う直前、この海からすっかり海水が引き、両島が五分間ほど陸続きになった、と地元の人が話していた。ほどなく、それに倍する大波が押し寄せたのであろう。大きな椰子の木が根こそぎ倒れたままになっていた。

 ウェ島の犠牲者は二十人ほどだったという。人口密度の小さな島だったからでもあるけれど、死者行方不明者二十万人以上のアチェの甚大な被害に比べると軽微と言えるのかもしれない。

 アチェには立派なツナミ博物館が建設されていて、津波が押し寄せた前後のビデオを放映していた。

  地震発生直前から発生の瞬間の激しい揺れ、その後の壊れた建物の下からの救助活動。

 場面変わって、町の中で人々が一斉に一方向に逃げ出す光景。

  その直後、路上にくるぶしの深さくらいの黒い水が現れたと思ったら、次の瞬間には瓦礫や車を巻き込んだ濁流が道路を流れた。

  川を流れる残骸の上に取り残された人々の群れ。泥だらけのわが幼子の骸を抱える父親。

  主として素人が撮った複数の映像を編集したものだろう。画像は乱れていたが、それだけに一層臨場感がある。

 このCDを手に入れることもできた。

 瓦礫と死体が折り重なるように港の船だまりを埋める写真も強烈な印象を残す。

 犠牲者には申し訳ないが、人間の卑小さに比して圧倒的に大きな自然・地球の偉大さと言おうか存在感に、呆然たる思いを覚えた。

 ■友好的なアチェの人々

 バンダ・アチェは東チモール同様、永年にわたって独立運動が活発だった。イスラム原理主義を母体とした「自由アチェ運動」の武装集団と国の軍・警察が武力衝突を繰り返し、それはほとんど独立戦争であったらしい。この戦争で寡婦や孤児が増えた。

 その紛争を収束の方向に向かわせたきっかけが、二〇〇四年の大地震津波だった。翌年、反政府軍と政府の間で和平に合意、「自由アチェ運動」の武装解除も進んだ。

 それでも日本の外務省はアチェ一帯については、「渡航の是非を検討するよう」注意を呼びかけていた。これに義理だてしたのか、持っていった「地球の歩き方」にはアチェの案内が皆無だった。私がインドネシア滞在中も「バリ爆破犯が最近までアチェの山中に潜んでいた」というニュースが流れていたから、事なかれ主義の?外務省としては無理ないのかもしれない。

 でもアチェの町の中では、そんな「危険」はまったく感じられない。宗教心(大半がイスラム教)が篤い分だけ治安はいい。人々も他都市より素朴で旅行者に対して友好的だった。

 アチェの中心部を流れる川岸を散歩していたら、若い男二人が釣りをしていた。何が釣れるか、そばで見ていたら、「一緒にやってみたら」と、予備の竿とリール、仕掛けを取りだし、餌の小エビまでつけてくれた。

 流れに乗せてゆっくり流すと、ほどなくアタリがきた。釣れてきたのはナマズの仲間だった。続けてもう一尾。行きずりのガイジン旅行者の成果に、彼らも一緒になって喜んでくれた。獲物を仕掛けから外してくれたり、餌を取り替えてくれたり。仕掛けを川底にひっかけてしまったときも「ノープロブレム。ノープロブレム」。

 近代的な首都ジャカルタなどに比べると、地方はインフラの遅れが顕著である。経済的にも明らかに貧しい。でも「人っこ」良いのは地方人の方だ。経済的な豊かさと人の良さは反比例するのではないだろうか。

 インドよりネパール、ケニアよりタンザニア、タイ・ベトナムよりカンボジア。いずれも後者が貧しく「人っこ」いい。

 どの国でもタクシーなど旅行者目当ての商売人には、嘘、ごまかしはつきもの。アチェにもそうした輩はいたけれど、「危険地帯」とされて外国から来る客が少ない分、一般住民の間には素朴さが残っているのだろう。特に日本人はほとんど来ないし、来ても街中をぶらつくようなのはほとんどいないから、私なんかがふらふら歩いていると「ジャパンか?」。そうだと答えると訳もなく喜んでくれる。

アチェの人。インドネシア・スマトラ

 惜しむらくは、飲酒がほとんど不可なこと。アルコールの力を借りて他人と仲良くするのが得意な当方としては、ちぃっと物足らん。

 ■インドネシアはでかい

 インドネシア徘徊の主たる目的地は三ヵ所。

  スマトラ北端のバンダ・アチェ。スマトラ沖大地震津波の爪跡を見ることと、アチェからアンダマン・ニコバル諸島(インド領)に渡るルートの有無を確かめること。

  次いで、ジャワ原人の化石が発掘されているジャワ島のソロと博物館のあるサンギラン。

  三ヵ所目が、数年前に小型原人化石が発見されたフローレス島。

  この小型原人フロレシエンシスはジャワ原人の島嶼化したものか、または別の原人の流れか、はたまた現生人類の奇形か、研究者の間で熱い議論が続いていた。

  一万二千年前ころまで生存していたというから、その時代はすでにアフリカを出発した現生人類もこの地に到達していたはずである。(注 当時は1万2千年前とされていたが、2022年現在は5万年前とされている)

  ヨーロッパでは旧人のネアンデルタールが三万年前ころまで現生人類と同時代に生きていた。フロレシエンシスが原人だとすると、地球上に数種の異なる人類、それも現生人類と旧人、原人がごく最近まで生存していたことになる。

  アチェでツナミの爪跡と復興の様子を見た。インドネシア側からアンダマン諸島に渡ることはできないこともはっきりした。アチェでの目的は百%達成した。

  予想した以上にスマトラで時間を費やしたので、このペースではフローレスまでたどりつけるかどうか危うくなってきた。

  スマトラからジャワ、バリ、ロンボク、スンバワ各島を経てフローレス島まで、はじめは島と島の間のフェリーを除いて陸路を行くつもりだったが、とても時間が足りない。安売り航空券の期限は四十五日間、五月二四日まで。しかたなくメダン‐ジャカルタ間は飛行機を使って移動した。インドネシアは思った以上にでかい。 

 首都ジャカルタには、大学同期のKJと、アチェで短い時間会って情報をもらったKMさんがいる。KMさんは、大学時代の先生であり兄貴分でもある。

  KJがここ数日間、カンズメになって仕事の仕上げをしているので、彼が仕事から解放されて出てくるまで、首都近辺でぶらぶらしながら待つた。

  KMさん夫妻が部屋を提供してくれる、と言ってくれたけれど、何日間も厄介になるのは気が重いので遠慮した。 貧乏旅行者が集まるジャグサ地区というところに安宿を確保した。

  初日はエアコン付きの部屋が満員で、扇風機だけの部屋だった。暑くて夜も眠られなかった。二日目からめでたくエアコン部屋に移動した。赤道直下はやっぱり暑い! インドやアフリカよりも暑い。

  スマトラでは、体調は絶好調だったけど、移動中に小型カメラを紛失した。ぎゅう詰めのバスの中で落としたか、あるいは盗まれたか―どちらにしろショックが大きい。

  ジャカルタに着いた途端、ひどい下痢をした。路上で食った、卵焼きもどきが悪かったか? ひどく油こかった。

 ■ニッポンの役人は真面目で優秀だぁ!?

 インドネシアに行く直前、それまで一ヵ月間だったビザ有効期間が、同国内で延長可能になった。それまで一ヵ月以上滞在したい旅行者は、いったん国外に出て再度入国する必要があったが、今は入管事務所(イミグラシ)で申請すれば「簡単に」延長してもらえる。

 どこのイミグラシでも可能という話だったから、ジャカルタで目に付いたイミグラシに飛び込んだが、私のジャカルタでの滞在先を確かめて「ここじゃない」。次いでホテルのフロント嬢に教えられたイミグラシは住所が間違っていた。なんだかんだで、やっと四軒目にたどり着いたのが、目指す窓口だった。      

 窓口はとおに始業時間を過ぎていたのに、男女の役人どもは窓口に背を向け、自分の机の上に食い物を並べて雑談に興じている。窓口には日本の百円ショップで売っている、英語と日本語併記の「Close 休業」のプレートが下がったまま。

 一緒に窓口に並んでいたインド人の申請者に「まだ始まらないの?」と尋ねると、「いや、もうオープンしてるんだけどね」。「いつも怠慢、そしていつもマネーさ。このままじゃ、今日中にはビザは出ないよ」。

 冗談じゃない。今日は金曜日。今日中に出ないと月曜になってしまう。

 見ていると、個人で申請に訪れている人は少数で、おばさんが二、三人、書類の束を抱えて事務所に直接出入りしている。手続き代行屋か? きっと鼻薬を利かせて短時間でやってもらっているのだろう。      

 トシ喰った男の係がようやく書類に目を通してくれた。「そこに座って待っていろ」。暇だったから窓口の内側に手を伸ばして「Close」のプレートをひっくり返してみて見ると「Welcome We are open 営業中」。

 手続きがさっぱり進まないまま二時間が経過した。いらいらが募る。

 別の係が再度私の書類をチェックしはじめた。どこに滞在している?と聞くから「ジャクサ通」と答える。

  ――そんなこと、その申請書類に書いてあるだろ。ナニ読んでんだ。アホンダラー(ここはそっぽを向きながら日本語で)      

  ようやく受け付けられたと思ったら、収入印紙を買ってこい、コピーを取ってこい、カネを払ってこい、ハンコをもらってこい、とあっちの窓口、こっちの窓口へとたらい回しされて、六番目に行った窓口は二番目に出向いた窓口と同じだった。やれやれ・・・

  この間、四階にある窓口から一階の別の窓口へ階段を往復すること二度。このクソ暑い中、階段を駆け下り、駆け上った。      

 さすがに日本人がしびれを切らしていることに係も気がとがめたようだ。はじめほどぶっきらぼうではなくなり、急に作業が速くなった。      

  一切の手続きが終わるまでに要した時間は二時間半。支払ったカネは用紙代五千ルピア(五十円)、印紙代七千ルピア(本当は六千ルピアのはず)、ビザ延長代二十五万ルピア(本当は二十五$だから二十三万ルピア以下)。ま、こうしたいい加減さは、東南アジアやアフリカでは珍しいことではない。

  日本では公務員批判が盛んだけど、これに比べたら日本の役所の窓口は真面目で迅速だなぁ~と今さらながら思う。ま、比較の対象が悪すぎるんだろうけど。

 ■人類発祥はインドネシア!?

ホモ・フロレシエンシス

 ジャカルタの国立博物館に、ピテカントロプスと並んで二十一世紀になってフローレス島で発見されたフロレシエンシスの化石が展示されている。ピテカンはホモ・エレクトス。フロレシエンシスも同じの仲間なのか、あるいはそれより前のホモ・ハビリスに近い種なのか、一部には現生人類の奇形だとする説まであった。

 フロレシエンシスの展示説明に次のように書いてあった。

 ――この小型化した人類(フロレシエンシス)は三万~一万八千年前に生存していた。ジャワのホモ・エレクトゥス(ピテカンのこと)がいたのは三〇万~一〇万年前。ジャワで最も古いホモ・サピエンス(現生人類)の証拠は一万三千年前。(注 2022年現在、インドネシアではもっと古いサピエンスの存在が確認され、さらにフロレシエンシが生存していたのは5万年前くらいまでとされている)

「フロレシエンシスはジャワのホモ・エレクトゥスとホモ・サピエンスをつなぐリンクかもしれない云々」・・・最後のあたりはあいまいな表現で。

 まさか、フロレシエンシスが、例の「ミッシング・リンク」(本来は類人猿と人類をつなぐ半人類半類人猿のような生き物の意味だから少し意味合いが違う)と言いたいわけじゃないだろーね。もしピテカン→フロレシエンシス→ホモ・サピエンスと進化したのなら、人類の発祥の地はインドネシア、ということになってしまう。これは現世人類のアフリカ起源説に真っ向から挑戦することになる。

 ここはれっきとした国立博物館である。専門家がいるはずだ。世界の人類学会の趨勢を知らないわけがない。果たして博物館側の意図は? やっぱり自国を人類発祥の地に位置づけたい、アフリカ起源を否定したい気分があるのだろうか?

 アフリカ起源説によると、現生人類がアフリカを出たのが六万年ほど前(この年代については最近はもっと古いとも言われている)。オーストラリアの一番古いヒト(現生人類)の遺跡は四~五万年前といわれる。つまり、そのころにはヒトは今のインドネシア付近を伝ってオーストラリア方面に移動したと考えられている。

 人類が通ったと考えられているインド、パキスタンやインドネシアでは、そんな古い遺跡は今のところ見つかっていない。当時は寒冷期で海面が大きく低下していた。ヒトは海岸沿いに移動したため、その痕跡は海底に埋もれている、というのが考古学者たちの考えだ。

 今では、このアフリカ起源説が圧倒的優勢になり、東南アジア起源説はほぼ駆逐されたはずだが・・・

 ■サンギラン行

 ジャカルタに一週間ほど滞在したあと、中部ジャワのジョグジャカルタに近いソロに列車で移動した。ソロ市内の移動はもっぱらベチャを利用した。ベチャは自転車で押す人力車みたいな乗り物である。座席に座ると前方の様子がよく見渡せるから、街の中を見学するには都合が良い。

 私の乗ったベチャのドライバーは、どういうわけか爺さんばかりだった。枯れ木のような細い足で懸命にペダルをこぐ。ちょっとした上り坂になると、たちまちスピードが落ちる。線路の踏切のような小さな坂でも停まりそうになる。屈強な若い男のベチャがわれわれを追い抜かしていく。なんだか乗ってるのが苦痛になってくる。体力から考えたら爺さんを乗せて私がペダルをこぐべきなのかもしれん。その方が絶対にスピードがでる。でも、それじゃ、爺さんは仕事にならない。

 郊外ではバイク・タクシーのオジェを利用した。ベチャと路線バス、オジェを乗り継いでソロから十八キロほど北にあるサンギラン博物館を訪れた。サンギラン周辺を流れるソロ川沿いは化石の宝庫である。人類化石のほか古代象マストドンやステゴドンなど豊富な化石も出土する。

 オランダ人のデュボアが一八九一~九二年に第一号のピテカントロプス(ジャワ原人)を見つけたのは、サンギランから七十キロほど離れたソロ川沿いのトリニール村だった。デュボアはこれをヒトとオランウータンの中間種、つまりミッシング・リンクと考えた。

 ミッシング・リンクはドイツ人の形態学者ヘッケルが提唱し、過去に類人猿とヒトとの中間種がいたはずと考え、これにピテカントロプスと命名した。ピテカントロプスとはギリシャ語でサル(ピテコス)と人類(アントロポス)を意味する造語。

 今ではこのピテカントロプスはホモ・エレクトゥスに分類され、人類の仲間に入れられている。サルと人類の中間種という意味では、もうこの呼び名はふさわしくない。

 二〇世紀になって、他の考古学者によってサンギランでさらに多数のホモ・エレクトス化石が発見された。これまでに世界中で発見されたホモ・エレクトゥス化石のうち、半分くらいはこのサンギランで見つかっているという。戦時中、日本がインドネシアを支配した際、その一個が日本に運ばれ「皇居におさまった」こともある(イアン・タッタソール著「化石から知るヒトの進化」)。

 博物館前でオジェを下りると、初老の男が寄ってきて「日本人人類学者のババさんとマツウラさんを知っている。彼らがこの地で発掘したとき、俺も協力した」と話しかけてきた。男の名前はサタント。「化石の発掘現場は少し離れている。バイクで案内しよう」としきりに誘う。

 彼が知っているというババさんとマツウラさんは人類学者の馬場悠男、松浦秀治両氏であろう。発掘協力に対して両氏からサタントに贈られた感謝状も見せてくれた。

 まずは博物館の展示を見学してから、と中に入る。ジャカルタの国立博物館などに比べるとささやかな展示だったが、職員はとても親切だった。客が私一人だけだったせいもあるのだろう。セキュリティの男が展示室の裏側の収蔵庫や、発掘して間もないマストドンの化石をクリーニングし、修復しているところも見せてくれた。ついで「ピテカンが発掘された現場にも行かないか」と誘われた。案内料は十五万ルピア(約千五百円)。彼らも現地案内で副収入を得ているらしい。

マストドンの歯化石

 博物館前ではサタントが私を待ちかまえている。彼に案内してもらうことを約束していたわけではないが、袖にするのも気が引けた。博物館内を親切に案内してくれたセキュリティの男には申し訳ないが、「先約があるから」とサタントのバイクにまたがった。

 サタントが案内してくれたピテカンの発掘現場は、崖が崩れかかり地層がむき出しになっている。地面には貝や動物の骨のかけらが無数に散らばっていた。化石化した古いものも、化石化していない新しい物も交じっている。サタントたち土産物店経営者たちは、これらの化石や石器を拾い集めては観光客に売っている。中には偽物もあるらしい。

 少し離れた地点には一九九〇年代に馬場、松浦両氏らが手がけた発掘場所もあった。

 サンギラン一帯は、低地を川が流れ、両岸に沿って平地と緩やかな丘陵地帯になっていて、田圃や畑が広がっている。ところどころにこの地方に特徴的な屋根構造を持つ民家が点在する、何の変哲もないありふれた農村地帯だった。

 メモ サンギランへの行き方 ソロのティルトナディ・バスターミナルから路線バスに乗ってカリジャンプ下車(バス代は往き一万ルピア=約百円、帰りは三千ルピアだった!)、オジェ(一万五千ルピア)で博物館へ。博物館の守衛が発掘現場を案内するアルバイトをしている(一万五千ルピア)。博物館前で土産物店を開いているサタント氏もガイドをする。土産品を買わされる覚悟が必要?

 ■ウォレス線を越える

 バリ島からフェリーでウォレス線を越えてロンボク島に渡った。バリ島とロンボク島の距離は約二十五キロ。天気が良ければ互いに青い島影が見える。

 海面が百メートル以上低下した最寒期には、マレーシアからスマトラ、ジャワ、ボルネオにかけて陸続きになりスンダランドを形成し、アジア大陸とつながったが、バリとロンボクの間の海峡は陸続きになることはなかった。この二つの島は深い海峡と早い海流で隔てられている。

 一方、オーストラリア側もニューギニアがオーストラリア大陸と陸続きになりサフルランドになった。昔のスンダランドとサフルランドの間の海には現在、ロンボク、スンバワ、フローレス、スンバ、チモール各島など千を数える大小の島が連なり、ヌサ・トゥンガラ諸島と呼ばれている。ヌサ・トゥンガラ諸島では、アジア由来の動物とオーストラリア由来の動物がミックスし、さらに長い時間をかけて独自に進化した独特の生物相が見られる。

 ダーウィンと同時代のウォレスは、バリとロンボク間、ボルネオとスラウェシ間の動物相の違いから、バリとボルネオを含むアジア側と、ロンボク、スラウェシ側との間に一本の越えられない線を引いた。これがウォレス線である。

 ウォレスはヌサ・トゥンガラ諸島の動物相の調査から、時間的、地理的隔離を原動力とする進化論を考えた。ダーウィンがガラパゴスなどの調査から進化論を思いついたのと、ほぼ時を同じくしている。今でも進化論はウォレスの方がダーウィンより早かったと考える人たちがいる。

 大昔にこのウォレス線を越えた大型動物がいた。人類とゾウの仲間のステゴドンである。現生人類(ホモ・サピエンス)は五万年くらい前にオーストラリアに到着しているから、それ以前にこの付近を通過したはずだ。さらに二一世紀になって発見されたフロレシエンシスの化石は、現生人類以前にもウォレス線を越えた人類がいたことを物語る。

 どうやってこの流れの速い海峡を渡ったのか? 波にさらわれた遭難者がたまたま対岸にたどり着いたのだろうか? 二〇〇四年のスマトラ沖地震津波では、百キロ以上も沖に流された人が、流木にしがみついて一週間後に生還した例もあったから、万年単位の歴史の中では、そういった偶然も何度かあっただろう。あるいは竹製のいかだでもあやつって計画的に海峡を越えたか?

 バリのバタンバイ港からフェリーで五時間余りかかってロンボクのレンバル港に渡り、さらに乗り合いタクシーでヌサ・トゥンガラ州の州都マタラムに行き宿を取った。

 ■甲板で南洋の星空を仰ぎ見ながら遠雷を聞く

 マタラムに着いて、さて、どーやってフローレス島まで行こうか? ロンボク、スンバワ両島を縦断する長距離バスで一気に行くか? 二十四時間以上かかるなぁ~。ジョグジャカルタからバリまで夜通しバスで移動したから長距離バスには少し飽きた。途中下車を繰り返してあちこち泊まりながら行くか?

 迷っていたら、ホテル出入りの旅行代理店の男から三泊四日のボートツアーを勧められた。三泊は船上泊、食事付きで百五十五万ルピア(約一万五千円)。途中、オオトカゲで有名なコモド島のトレッキングや海水浴、シュノーケリングなどをする。バス代やホテル、飯代、コモド・ツアー代金を考えれば、途中下車をしながらバスで行くよりも、このボートツアーの方が安上がりかも・・・と、例によって浅はかな計算をして参加を決めた。あわただしく荷物を整え、迎えのバスに飛び乗った。

 参加者は十五人。私以外はみな欧米人、しかも若い女性が十人。ボートは、木造漁船にシートで屋根を掛けただけのシンプル過ぎるつくり。トイレは海水を汲み揚げて流す「水洗式」だった。真水はペットボトルの飲み水のみ。もちろんシャワーなどない。船尾の隅には脚を縛られたニワトリが数羽、床の上にじっとうずくまっていた。私たちツアー客と乗組員全員の食糧になる運命だった。

 運転席・機関室の屋根の上をシートで覆い、屋根とシートの間の背も立たない狭いスペースが寝室となる。参加者一人ひとりに一枚の薄っぺらで湿っぽいマットレスと毛布が配られ、折り重なるように雑魚寝する。

 海の上とはいえ、ここは赤道直下である。そんな狭いところに押し込められたら息苦しくてかなわん。でかくて若いガイジンさんの熱気に気押され、私ははみ出したような感じで、一人甲板で寝ることにする。

 機関室の上と違って、風通しはいい。その分、風まじりの雨が降ったら、もろに吹き込んで寝ていられない。

「ダイジョーブ、ダイジョーブ。おぬしはローカル・ピープル並みに小柄だから、雨が降ったら、俺達の寝ている乗組員室に逃げ込めばいいさ」

 ママン船長とガイドのヨーヨーが、同じアジア人の気安さで慰めてくれる。

 私は甲板の真ん中にひとり陣取った。

「こりゃ、広々としていて涼しくて快適だわい」

 そのうち機関室の上の「寝室」に入ったはずのガイジン男どもが、いつの間にか甲板に下りてきて、屋根もない舳先なんかにめいめい転がっている。「寝室」は狭くて、暑くて、我慢できなかったのだ。

 船は真っ暗闇の中をひたすら走る。どこを航行しているものやら皆目見当もつかない。右手に人家のかすかな光が見えたこともあったから、スンバワ島の海岸沿いに移動していたのだろうと想像ができるだけだった。

 甲板から見上げた夜空には、都会では考えられないほどたくさんの星が輝いていた。牛乳を流したような天の川が上空を斜めに横切り、一つ一つの星がいつもより間近に感じられる。

 遠くの闇の中からかすかに雷の音が伝わってきた。水平線を眺めていると、あちこちで雷光が線を引く。遠くでスコールが発生しているのだった。

 船はそのスコールを避けながら闇の中を突き進んでいく。

 突然、周囲が一瞬にして真っ昼間のような明るさになった。と同時に、頭上から大音響が降ってきた。近くに雷が落ちたのだった。屋根のない舳先に寝ていた英国人の青年トムが、飛びあがるように跳ね起きると、あわてて屋根のある甲板に飛び移ってきた。間もなくスコールが来た。

 ■目覚めれば隣に半裸の美女が寝ていた

 体にまとわりつくような湿度百%の熱帯の大気。塩分を含んだ潮風を吸って決して乾燥することのないマットレスと毛布。背中の痛みとかゆさにいつまでも寝返りを繰り返していたが、ゆっくりと船体をローリングさせるうねりを揺りかごに、いつの間にか寝入ったらしい。うっすらと空が白みかかるころ目覚めると・・・

 すばらしく形の良い、ながーい肢体を毛布の外に惜しげもなく投げ出した半裸の美女が、俺のすぐ隣で寝ていた。二人も。まさに「川」の字になって。私が真ん中の一番短い「ー」でなかったのは、少し残念だったが!?

 彼女たちも暑苦しさに耐えかねて甲板に避難してきたものらしい。

 船上の四日間をシャワーなしで過ごした。三日目になると耐えきれなくなって、海の中で体をごしごしこすって垢を落とした。でも塩水では体のべたべた感は取り除けない。ウェットなマットレスのおかげで背中一面にあせもが出来た。

 狭い船内に乗組員も含めて二十人が、鼻突き合わせて六十時間以上を過ごした。濃密、濃厚な四日間だった。そして、船中にただようむきだしの体臭も濃厚・・・ま、お互い様だから、それほど気にはならなかったけれど。

 正直なところ六十爺には、ちょっとくたびれる、過酷なツアーだった。

 ■大物シイラ、ゲット

 ボートツアー二日目。船が走っている間は、乗客は何もすることがない。私以外は英語の達者な若い欧米人ばかりで、彼ら同士の流ちょうな会話に、こちらはとてもついていけない。必死に聞き耳を立てていても脳みそがじきにフリーズしてしまう。で、アタマが疲れてくると、初対面の時からなんとなく気の合ったママン船長のいる操舵室に行き、とりとめもない話をした。英語下手同士でちょうど具合がよろしい。暇そうな私に、ママン船長は

「これで釣ってみろ」と、疑似餌のついた長いテグスを一巻き貸してくれた。

 デッキの縁に腰掛けてひとりテグスを送り出す。船は速度を上げているから、疑似餌は波間にひょいひょいと飛び上がる。こんなスピードでも魚が食いついてくるのかしらん?

 テグスは数百㍍の長さになっていただろう。テグスを引っ張っているだけでもけっこう重い。ときどき腕を振って魚に誘いを掛ける。何度目かの休憩の後、再開した途端、ゴツンと何かに引っかかったようなアタリがきた。「来た!」

 テグスを力いっぱいたぐり寄せようとしても、まったく巻き上がらない。でも確かな魚の反応。テグスを柱に巻きつけて、すぐそばの船長室に駆け込んだ。

 「来た!来た!来た!」。多分、日本語で叫んだと思う。

 昼寝中のママン船長に代わって舵を握っていた若い船長代行が、アタリを確かめるとすぐに船尾に飛んで行って他の乗組員に加勢を求め、三人でテグスをたぐり寄せた。最後の仕上げは騒ぎを聞きつけて昼寝から起きてきたママン船長の出番である。船の外側に張り出した船尾の足場に移り、船縁に片手をかけてバランスを取りながら、もう一方の手で弱った魚を素手でつかまえ、船内に放り込んだ。

 ばしゃ、ばしゃと重量級の音を立てて、魚体が甲板上をはね回る。「でかい。マヒマヒ(シイラ)だ」。金色の魚体がたちまち銀色に変わっていく。ママン船長と互いの拳を打ち合わせて「やったぜ!」。

 魚体を持ち上げる。体長一メートル余り、重~い。手が痛いと思ったら、人差し指の付け根付近が切れて血がにじんでいた。テグスをたぐった時に切れたのだ。ママン船長が自分の掌を見せてくれた。テグスによる大きな傷跡がいくつも残っていた。

他の客たちもカメラ片手に集まってきた。トルコ系ドイツ人医師のジャスミンさんが、真っ先に祝福してくれた。「Congratulation!」 

 シイラは乗組員の手ですぐにぶった切られ、解体され、料理されて乗客と乗組員全員の晩飯に供された。豊富とは言い難い船上の食事だから、感謝の嵐? 孤独な老釣り師もこの時ばかりは船内の〝ヒーロー〟だった。

 ■コモドドラゴン

コモドドラゴン。体長3m、体重100kになる世界最大のオオトカゲ。コモド島とリンチャ島にのみ生息し、野生の鹿や豚を襲う。過去には人間が犠牲になったこともあった。(インドネシア・リンチャ島で)

 三日目はこのボートツアーのハイライトの一つコモドオオトカゲを見に行った。船は最終目的地のフローレス島の近くまで来ていた。フローレス島の隣のコモド島とリンチャ島がコモドオオトカゲの生息地である。現地の人は「ドラゴン」と呼んでいたが、本当は恐竜でなくトカゲの仲間で体長三メートルにもなる。見るからに恐ろしげな姿形は数千万年前の恐竜を彷彿とさせる。

 まず、コモド島をガイドの案内で探索した。なんとなく湿っぽい林の中やなだらかな丘陵地帯を歩く。コモドオオトカゲが産卵のために掘った穴や、未消化の骨が交じった糞を見つけた。ガイドの話では、オオトカゲは島に住む鹿を食っている。馬や水牛のような大型動物さえ襲うことがあるそうだから、人間にとっても危険だ。事実、過去には何度か人間が犠牲になっている。観光客が突然行方不明になり、あとでカメラだけ見つかったこともあるそうだ。

 ふだんは日向ぼっこでもするようにじっとしているコモドオオトカゲだが、獲物が射程距離に入ると、一気に襲いかかる。

 近くの草むらにでも潜んでいるのではないか、と内心びくびくしながら島内を歩いたが、痕跡ばかりでコモドオオトカゲの姿は見られなかった。やっぱり、野生の大型動物である。そう簡単に出会えるはずがない・・・そう思った。

 もうだめかな、探索をうち切って船着き場に戻る途中でガイドが木の下にいる一頭を見つけた。目は開いていたが、じっと動かない。みんなで写真を撮る。だんだん近寄っていくわれわれ見物客にガイドが注意する。「それ以上近づくな」

 ガイドは持っていたバッグを長い棒の先にくくりつけ、それをそーっとオオトカゲの方に差し出した。その途端、オオトカゲがバッグ目がけて一直線に飛びついた。見かけによらず素早い動きだった。

 ガイドはここにオオトカゲがいることを、あらかじめ知っていたようだった。あるいは餌付けでもしているのではないか。バッグを見た途端に飛びついてきたのは、その中に餌が入っていることを知っていたからではないのか? なんとなくそんな気がした。あとでガイドに餌付けしているのか、尋ねてみた。彼は否定した。

 四日目は隣のリンチャ島に上陸し公園管理事務所に行った。コモドとリンチャの二島には合わせて三千頭以上のコモドオオトカゲがいるそうだ。

 昨日のコモド島ではたった一頭にしか出会えなかったのに、ここリンチャ島の管理事務所前には数十頭のオオトカゲが地面に寝そべっていた。周辺の草むらから、のそりのそりと管理事務所の建物目がけて歩いて来るヤツもいる。まだ朝が早かったせいか動きが鈍い。樹木のない建物のまわりに集まって日光浴をしている。こんなふうに集まってくるところをみると、餌付けしていることは間違いないように思われた。

 こんな小さな島でコモドオオトカゲが生き延びてきたのは周囲から隔絶されたこの地域の特異な環境にある。ウォレス線を挟んでアジア大陸と隔てられたスラウェシとヌサ・トゥンガラ諸島には、大型陸上肉食獣がいなかった。海を渡ることができなかったのだ。コモドオオトカゲは、その空いていた生態的最上位の位置を占めることができた。

 コモドオオトカゲが変温動物のは虫類であることも幸いしたに違いない。同じ大きさの哺乳動物が必要とするエネルギーの百分の一で生きることができるのだそうだ。エネルギー消費の大きな恒温動物の大型肉食哺乳類が、この小さな島で生きることは難しい。

 ■リアン・ブア洞窟行

 2003~2004年、インドネシアのフローレス島で、現生人類とは別種の奇妙な人類化石が見つかった。

 ホモ・フロレシエンシス。愛称「ホビット」と名付けられた、この化石を発掘したのはオーストラリアの人類学者マイク・モーウッド率いる同国とインドネシアの共同調査チームだった。モーウッドたちは当初、ホビットは1万2千年前まで生存していた、と発表した。2022年現在、ホビットが生きていたのは5万年前ころまでだった、とされている。

 モーウッドたちは、この身長一メートル程度の小柄な人類は、グルジアのドマニシ遺跡で近年発見された百八十万年前の人類と似ていることに注目した。両者ともホモ属に進化する以前のアウストラロピテクスと初期ホモ・エレクトゥスの両方に共通点がある。

 一方で、現生人類の奇形を主張するグループもあって、メディア上で大論争に発展した。奇形説を展開した、インドネシア人類学会の大御所との間で化石の〝争奪戦〟も演じ、果ては貴重な化石を「壊した」「壊さない」と・・・この世界もなかなかナマナマしい。

 ホビットが見つかったのは、フローレス島の西部、マンガライ地方の中心地ルーテンの近くにあるリアン・ブア洞窟だった。

リアンブア洞窟

 実を言うと、私はフローレス島に着くまでリアン・ブア洞窟がどこにあるのか、正確な位置を知らなかった。「フローレス島の西部にある」と、どこかに書いてあったのを目にしただけで、「ま、行って地元の人に聞けばなんとかなるだろう」と、いつものように気軽に考えていた。

 フローレスの最西の町ラブアンバージョに着いて、ボートツアーのガイドのヨーヨーにリアン・ブアへの行き方を聞いた。

 チャーターした車で往復すると一日がかり。下手をすると一泊が必要かもしれない。複雑な山道だから自分で運転していくのは無理だろう。運転手付きの車を一日借りて百万ルピア(約一万円)くらいする。ただ洞窟を見てくるだけにしては大きな出費だ。

 バイク・タクシーのオジェならいくらくらいだろう?ヨーヨーに相談しながらあれこれ検討していたら、同じボートツアーで来たスペイン人のエバと英国人のコンスタンスも、リアン・ブア洞窟とその周辺の村を見学しようと、仲間を募っていた。

 定員は四人。エバたちは同じボートツアー仲間のカナダ人のエリーズの勧誘にも成功した。チャーター車の手配もエバたちがやってくれた。交渉の結果、運転手付きで八十万ルピア。一人二十万ルピアで済んだ。

 次の日の早朝、波止場近くで待ち合わせた四人は、地元の青年アシシの運転する車で目的地に向かった。曲がりくねった未舗装の山道を上り下りし、いくつもの小さな集落を通り過ぎて、片道五時間がかりでリアン・ブア洞窟の前に着いた。途中で雨が降ってきた。オジェで来ていたら、かなり惨めなことになっていたはずだ。

 洞窟の入り口付近には柵がめぐらされ、入り口にはかんぬきが下ろされている。道路からは背の高い草や樹木に遮られて入り口の一部がほんの少し眺められるだけだ。近くに誰もいない。研究者たちは学会に出席するためジャカルタに出向いていて留守だった。

 アシシが付近を尋ね回って洞窟の管理を任されている地元の青年を見つけ出してきた。青年は入り口の鍵を開け、洞窟の内部を案内してくれた。

 大きな洞窟だった。高さが十メートル以上ありそうな天井からは、シャンデリアを思わせる複雑な形状の鍾乳石が垂れ下がっている。埋め戻したような発掘跡もある。洞窟の奥には入り口の光がほとんど届かない。外が暑くむしむしする気候でも、洞窟内は比較的乾いていて涼しく、マンガライの人たちはここを「リアン・ブア」つまり「涼しい洞窟」と呼んでいる。

 発掘したモーウッドによると、この付近は何度も火山噴火の降灰に見舞われ、その灰が洞窟内に流れ込んだ。そのはっきりしている火山灰層などから推して、遅くとも九万五千年前には人類がこの洞窟を利用したことが、残された石器から推測できるのだそうだ。

 発見されたフロレシエンシスの化石は、彼らがホモ・エレクトゥスよりも小さな脳の持ち主だったことを示している。人類がホモ属に進化する以前のアウストラロピテクスとの共通点も多い。エチオピアで発見された三五〇万年前の「ルーシー」に代表される、あのアウストラロピテクスである。

 これまで人類の「出アフリカ」は二度あったと考えられてきた。一度目はホモ・エレクトスの時代。アフリカからアジアに広がった彼らの子孫がジャワ原人や北京原人になった。これまでにアジアで見つかった最も古いホモ・エレクトゥスの化石はせいぜい百万年前。最初の出アフリカもそのころかそれより少し前と考えられてきた。

 そして二度目は現生人類のホモ・サピエンスになってから。その時期については十数万年前から五万年くらい前までと諸説ある。

 しかし、近年になってグルジアのドマニシ遺跡で発見された人類化石は百八十万年前のものとされている。ドマニシの人類(ドマニシ原人)もフロレシエンシス同様、アウストラロピテクスとホモ・エレクトゥスの両方の特徴を持つ。

 モーウッドは最初の「出アフリカ」は従来考えられていたのよりはるかに早かった、と考えている。しかもアウストラロピテクスからホモ属への進化は、アフリカではなくアジアが舞台だったのかもしれない・・・。ホモ・エレクトゥスはアジアから逆に「入アフリカ」を果たしたのかもしれない・・・

 ユーラシア大陸とはウォレス線を挟んで深い海と激しい海流で隔てられていたフローレス島に、フロレシエンシスはどうやって渡ったのか。その疑問も含めてホビットが提起した人類進化と拡散の謎はまだまだ尽きない。

 リアン・ブア洞窟の発掘でフロレシエンシスは、5万年前ころまでは生存していたことが分かっている。五万年前ころにはオーストラリアに現生人類が住んでいたことを考えると、ホモ・サピエンスはそれより前にインドネシア付近を通り過ぎたのだろう。フロレシエンシスとホモ・サピエンスは出会うことがなかったのだろうか? 同時代に生存していたとしたら、互いに一度も姿を見かけなかった、と考える方が不自然ではなかろうか。互いに相手を「変なサル」と思っただろうけど。

メモ リアン・ブア洞窟 私たちは運転手付き車をチャーターしたが、ラブアンバージョとルーテン間に一日数本のバスが走っている。ルーテンを基点にして訪ねる方が経済的だったかもしれない。入場料(チップ?)として一人五万ルピアを要求されたが四人で五万ルピアに値切る。普通は一人五千ルピアらしい。日本人価格か? 発掘された化石などはジャカルタの博物館に収められているので現地には何もない。

 ■親日と黒人蔑視

 アチェの項でインドネシアの人々が親日的であることを書いた。日本人に親近感を示すのはアチェに限らない。おしなべてインドネシアの人々は日本人に好意的なように感じる。

 金持ち日本人からうまいこと金銭を巻き上げようとして接近してくる輩も中にはいるけれど、商売には何の関係もなさそうな人々が、こちらが日本人であると分かっただけで、握手を求めてきたことが何度もあった。

 が、しかし・・・。説明するのは、なかなかやっかいだが、彼らの価値基準のおおもとは白人、欧米文化ではなかろうか。圧倒的に豊かで、体格的にも大きな欧米人に対するコンプレックス。その屈折した思いが、欧米に互した経済活動を展開している日本に対して、好感情を抱く一因になっているのではないか?

 もっとも、無条件の白人崇拝は、日本だって一皮むけば似たようなもの。コマーシャルにわけもなく登場するおびただしい白人モデルの例を挙げるまでもなく、白人美を美的価値基準にしている現実がある。ふり返って自分自身もその一人かもしれない。

 こんなしち面倒くさいことを思ったのは、英国の看護婦コンスタンス、スペインの同じく看護婦エバ、カナダの大学院生エリーズとリアン・ブア洞窟を訪れた時だった。肌の色を記するなら、私は褐色。コンスタンス黒、エバとエリーズは薄ピンク。

 チャーターした車の助手席にコンスタンス、中の座席にエバとエリーズが並び、前夜寝不足だった私は一番後ろの席で半ばひっくり返っていた。

 曲がりくねった山道が続くフローレス山中の村々は見るからに貧しい。仕事もろくにない住民が多いのだろう。集落を通り抜けるたびに、土埃にまみれ、虫食い状の穴だらけのシャツをまとった住民たちが、道路の両側にわけもなく群がっている。

 われわれの車が近づくと、好奇心をあからさまに示して車の中をのぞき込む。

 その人群れの中から突然鋭い声が浴びせられた。

「ニグロ!」

 それは一度や二度ではない。われわれの車が集落を通過するたびに、このあざけりの言葉が発せられた。その中には子供の声も交じった。

 前の座席の三人の様子をうかがうと、助手席に座っていた当の本人のコンスタンスは無視を決め込んでいる。エバとエリーズも、もちろん気づいていたろうけれど無言。一番後ろの私は、どう反応したらいいものか分からず、知らんぷりを決め込んだが、内心いたたまれない思いだった。同じアジア人、黄色人として――。

 車が集落にかかり、そこに人がたむろしているのを目にする度に「またか」と体が自然に固まり、飛んでくる罵声に身構えた。それは前の三人に対する身構えだったかもしれない。

 アジアの男子としては、窓から首を出し、ヤジを飛ばす外の連中を「シャラップ!」とでも一喝すればよかったのか(最後部座席の窓は開かなかったけれど)。それとも助手席のコンスタンスの姿が外から目立たなくなるよう、座席を交換すればよかったのか(そうすることもはばかられた)。

 思えば奇妙な光景である。「ニグロ」と罵声を浴びせているのが、欧米や日本ならホームレスだって着ていないようなボロをまとった男たちである。飯もろくに食えていないだろう。やせて貧相で、教育だってまともに受けたことがない連中である。

 方やコンスタンスは体格も立派、看護婦として教養もある。経済的にもずっと豊かだ。

 あざける側にとって、ただ一点、肌の色が黒いということだけが、優越感の源のようだ。色黒という点では、私も日焼けして相当に黒くなっていたし、罵声を浴びせている彼らだって負けず劣らず黒い。

 帰りの車内は沈んだ空気になっていた。往きでは通りすがりの子供に手を振っていた、多弁なエバも疲れたように座席に体を沈めたきりで、だれも口を利く気になれない。アジア人の私と前の三人との間に、目に見えないわだかまりが生じてしまったようだ。

 夜、ボートツアーで一緒だった他の男達(欧米系)も交えて食事をした。エバの向こう側に座っていたコンスタンスと目があったら、明らかに怒りの色を帯びていた(その後、うち解けたけれど)。

 日本人に対してあんなに好意的なインドネシアの人々が、どうしてあのようにあからさまに黒人を侮蔑するのか? 白人観光客と一緒に嬉々として記念撮影するインドネシア人が、こと黒人に示した理由のないあからさまな蔑視。「下」の者はさらに「下」を求め、差別された者がいったん差別する側に立つと、その仕打ちは一層峻烈になる。

 白人コンプレックスが裏返しになったものかも、と思い至ったら、彼らの示す好日感情もなんだか素直には喜べない。苦い思いがいつまでも残った。

 ■クリ・ムトゥ火山

 フローレス島の中東部にある火山のクリ・ムトゥ山に登った。この火山は山頂付近に三つの火口湖を持つ。その湖は青、黒、緑のそれぞれ異なった色の水をたたえている。聖なる山として付近の住民の信仰の対象となってきた。

 ボートツアーで一緒だった米国青年のチャーリーと早朝暗いうちに麓のモニ村を車で出発、登山道入り口から良く整備された山道を一時間ほど歩くと頂上の展望台に出た。日の出とともに三色の湖が姿を現し、観光客目当てに地元の男たちが紅茶を売り歩く。

 チモール行きの飛行機の出発時間が迫っていたチャーリーは、ベチャに乗ってひと足早く下山した。私は仲良くなった紅茶売りの男についてモニ村まで歩いて下りることにする。男の家はクリ・ムトゥ山の中腹にあった。

 男の家で茶をご馳走になり、あとは独りになった。民家が点在する山道をのんびり歩く。人を見かけたら、進行方向を指でさし「モニ?」と確かめる。前方から刃渡り五十センチくらいの山刀を持った男が現れた。「モニ?」「イエス」。それ以上の英語は通じない。それでも身振り手振りで、山刀をかざした写真を撮らせてもらうことに成功した。

 山道はあちこちで枝分かれしていて、どっちに行っていいか判断に迷うこともある。人もなかなか来ない。たまたま民家があっても、農作業に出ているのか、誰も出てこない。こうなったら、誰か通りかかるまで待つしかない。

 途中で女性三人連れに出会った。年のころ二十~三十歳。黒光りするような濃い髪の毛を頭の上でだんご状にまとめ、うち一人はその髪に山刀を差している。う~ん、どこかで見たような姿形だと思ったら、三内丸山遺跡で見た縄文人の想像図にそっくりだった。濃い眉、大きめの目、つまり「濃い」顔形から腰ひもでまとめた前あわせの衣服まで、あの想像図は彼女たちがモデルだったのか!

 一人は英語の単語をいくつか知っていた。ほとんど会話にはならなかったけれど、しばらく連れだって歩いた。あっけらかんとした気のいい女たちだった。間もなく彼女たちは道から外れ、藪の中に消えていった。別れ際、写真を撮らせて、とお願いしたけれど「ノー」と即座に断られてしまった。

 日本列島の縄文人は東南アジアから来た、とする説がある。最近のDNA研究などからは、広く東アジア全体の特徴を備えているらしいけれど、彼女らの姿形を見ると、日本人の祖先がこの付近にあったとしても不思議はないなぁ・・・などと思ってしまった。

 ハゲに関する進化論的私論

「二足歩行、裸のサル、ハゲ」と並べば、なんだか三題噺のようだけど、人間に頭などの一部を除いて体毛がないことと、直立して二足歩行を始めたことの間には、密接な関係があったに違いない。       

  東南アジアやアフリカを歩いて、赤道に近い地方の男どもに若ハゲが極めて少ないのではないか、という印象を持っている。知人のオセアニア研究者も、南太平洋の島々のネイティブにはハゲが少ないことを証言してくれた。たまに出会うハゲは、ヨーロッパ系。      

 そこで思い至った。頭髪は防寒のためにあるのではない。強い直射日光から皮膚を守るためにあるのだ、と。

 ある人は、毛が薄いのは進化のしるし、ハゲは進化が進んだから、なんぞとお馬鹿なことを考える。ハゲが生存にどんな有利な点があるというのだ。せいぜい洗髪が楽な程度だ。欧米人といえば、進歩した人間、果ては進化の進んだ人間と考える、過去の遺物のような考え方だ。

 人類が二足歩行を始めたのは、直射日光にさらされる体表面積を小さくするためだった、とする説があるそうだ。四つんばいより直立歩行の方が、確かに体全体に受ける直射日光の量は少なくて済む。それに普通、地面と地上一・五メートルではかなりの気温差がある。強い日差しで暑くなった地面から少しでも離れていた方が、体温を冷やすためには有利に働く。

  暑くて太陽光の強烈な赤道近くで進化した人類は、体を効率的に冷やすことと、受ける直射日光を減らすことは、生き残る上で不可欠だった。体毛を捨て、全身に汗腺を発達させたヒトのからだは、空冷式ラジエータ装備となり、連続的に長距離を移動することを可能にした。四足動物に比べて瞬発力では劣るものの、持久走ではヒトはもっとも優れたランナーである。

  裸になったのが先か、それとも直立歩行を始めたのが先かは、知らないけれど、直立歩行と体毛を失ったことは、密接な関係があったに違いない。四つんばいになって裸の背中を太陽に長時間さらして動き回るのは、考えただけでもたまらない。

 で、やっぱりハゲである。このような状況下では頭髪は無用の長物ではなかった。直射日光を遮る重要な役目を持っていたに違いない。ハゲでは直射日光をくらって脳内まで高温になったろうし(脳が高温に弱いのはコンピュータと同じ)、何より皮膚癌に冒される確率が高くなる。たかだか〇・一%くらいの差だったとしても、数千世代もたてば、はっきりと適者生存の有意差が生じたはずである。

 一方で、紫外線が弱い高緯度地方に移動した人類は、頭髪がないことは生存し子孫を残す上でさほど不利ではなかったのだろう。必要なビタミンDをつくるためには、毛がない方が有利だったかもしれない。

 子孫を残すという点では、ハゲは女にモテないというハンディもあるかもしれないが、欧米人は日本ほどハゲを毛嫌いしない、という話を耳にしたことがある。サッカー・ワールドカップを見ても、ハゲは白人選手に圧倒的に多い。   

 二足歩行を始めたことと体毛を失ったこと、ハゲとハゲでない二種類の人間がいることの間には、人類進化の深遠な摂理が働いていた――。

 ■カナダ娘がやって来た

 エリーズから「意を決して、日本行きの飛行機のチケットを買った」とメールが届いたのは、彼女が日本に来る二日前だった。そして東京に着いて四日目、わざわざ札幌まで足を伸ばしてくれた。

 エリーズ。カナダのかわいいお嬢さん二十五歳。働きながら今春大学院の修士コースを卒業、仕事も一区切りつけて、四月から十ヵ月間の予定で東南アジアをひとり旅している。「日本には寄らないの」と聞いたら「日本は物価が高いから・・・」と口をにごしていたのだが――。

 ロンボク島からコモド経由フローレス島行きのボートツアーから四ヵ月がたっていた。狭い船上の濃密な四日間だったから、参加者の間には特別な友情(友情というには、私一人が圧倒的にトシを喰っていたが)が生まれた。

 その中でも最も若いエリーズが、カンボジア、ラオス、タイ、ベトナムを回った後も私のことを覚えていて、会いに来てくれたのだった。正直うれしかった。

 その彼女が、札幌に来て三日目、円山に登った下りで右足を骨折した。宿泊先の安宿からわが家に電話が来た。

「ちょっとプロブレムが・・・。足を折った。歩けない」 

エリーズのなさけない声が電話の向こうから響いてきた。当地の唯一の知り合いである私に、SOSを求めてきたのだった。

 医者の診断は全治一ヵ月だった。宿泊先の女主人のアドバイスと依頼もあって、わが家で引き取った。

 折悪しく、そのころわが家ではとんでもない〝事件〟ですったもんだの最中。しかも前から予定していた友人とのオーストラリア行きが一週間後に迫っていた。ともかく安静が必要な一週間だけ末娘の部屋に同居してもらった。

 エリーズはケベック州モントリオールの出身で母語はフランス語。旅行中は英語を使うが、母語でない分ゆっくり話す。私には聞き取りやすい。もの静かで、それでいて物怖じしない、とってもいい娘だ。

 東南アジアなんかを歩いていると、ヨーロッパなどの女性(年齢はいろいろ)がけっこう一人でリュックを担いで長期間の旅行をしているのに出会う。汚くて、いかがわしくて、けっこう危なっかしい国もあるのだが、案外平気だ。「あんな娘が一人で大丈夫なんだろか?」と人ごとながら心配になる。

 最近は韓国や中国人もけっこういる。だけど日本人はきわめて少ない。日本では若い人が「内向き」になった、とよく言われるが、その表れだろうか? 将来の日本を憂えるなんて柄じゃないが、これまた「大丈夫なんだろーか」と心配になる。 

 エリーズは結局、当初予定を一ヵ月近くオーバーして札幌をあとにした。その間、私がかつて勤務した会社の同僚に頼んでエリーズを彼の自宅に招いてもらった。昼食もご馳走してもらった。その度に私も「じい役」として彼女に付き添ってご相伴に預かった(う~ん、じい役でしかないのが悲しいねぇ~)。ケガをした円山登山を勧めたのは私だったし、こちらの事情で大歓迎とはまいらなかったのが心残りだった。

 エリーズが去って間もなく、同じボートツアーで一緒だった米国人のチャーリーからメールが届いた。 「ガールフレンドとカザフスタン、ウズベキスタン、キルギスを旅行しています」とあった。インドネシアからいったん米国に帰ったあと再び旅に出たらしい。