伊藤雄馬著「ムラブリ 文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと」

コメントを残す

 最近、とても面白い本を続けて読んだ。藤野裕子の「民衆暴力」と伊藤雄馬の「ムラブリ」。両方とも印象に残った個所に付箋を付けているが、あまりに付箋の数が多すぎて、こちらの頭の整理が追いつかない。

 2冊とも図書館から借りたもので、本当なら借り出した順(読み終えた順番でもある)に記録するところだが、今回は後から読んだ「ムラブリ」を先に取り上げる。「ムラブリ」には次の貸し出し予約が数十人控えている。少しでも早く返却してやりたい。「民衆暴力」の予約は現在ゼロ、貸し出し期間の延長がきく。

 ムラブリとは、タイとラオスの国境近くの森を生活の場としている狩猟採集民族(ムラ=人、ブリ=森、つまり森の人の意味)。総勢数百人の少数民族である。言語学者の著者は学生時代から、彼らの村でムラブリ語の調査研究を続けて来た。ムラブリ語は絶滅危惧言語である。

 彼らの性格はシャイで、他人と争うことをひどく嫌い、なにか軋轢が生じそうになると、諍いよりも互いの距離を置くことを選ぶ(アフリカのサン=ブッシュマンもそうだった)。「自己主張し、押しの強さが生き残りのカギ」みたいな現代社会とは真逆の行き方をしている。たまに自分の意見を伝えようとするときも「自分は怒って言っているわけではない」ということを、くどいほど念を入れて繰り返す。

 ムラブリ語の感情表現は独特だ。例えば、たいていの言語では、幸福感を表すのは「心躍る」「up」する。悲しみは「心が沈む」「down」する。しかし、ムラブリ語では「心が上がる」は悲しみや怒りを表し、「心が下がる」が「うれしい」とか「楽しい」を表す。これは言語学的には極めて珍しい。

 脱線するけど、作家の深沢七郎がひとり静かに庭の草むしりをしながら、「幸福感とは沈んだ気持ち」といった趣旨のことを書いていた記憶がある。どこか共通する感性ではなかろうか。自分に正直に生きることを信条とするのも共通する。

 言語帝国主義の英語は、画一的な「up is happy」「positive is good」を押し付けるけど、言葉が違うということは、その感じ方も本当は異なるのかもしれない。物の少ない、一見、向上心がないようにも見える、ムラブリの自由な生き方は、物と常識の虜になっているわれわれ「文明人」の方が、本当は不幸なのかもしれんなあ・・・と気づかせてくれる。

 ムラブリ語を学び彼らの生き方に共感した著者は「日本社会から少しずつはみ出し」、人間関係も含め世の常識が煩わしくなってしまった。大学の先生の仕事も辞めて、今は「独立研究」の日々。「服は基本的に外着と寝巻きを1着ずつ、下着のふんどしを2枚持ち、毎日簡単に洗って着まわしている」。年中、はだしに雪駄か下駄。「日用品はリュックに収まる量しか持たない」というムチャぶり、ならぬ「ムラぶり」。

「日本でムラブリの暮らしを再現したいのではない(それはそもそも無理だ)。ムラブリの身体性を持つ人が、現代日本で違和感のないように生きることを望んだら、どのような生き方を達成するのか。ぼくが追求したいのはそういうことだ」

近藤紘一著「サイゴンから来た妻と娘」

コメントを残す

 この本などいまさら私が、読者もまばらなこのブログで紹介する必要などないのだが、個人的な備忘録のつもりで印象に残った個所を書きとめておくことにする。以下はほとんどこの本からの引用。

 ベトナム難民(ボートピープル)に対する日本の(政府だけでない。国民全体の)冷たさに言及して。
 難民を拒否する日本の言い分は「いずれも愚にもつかぬ詭弁だが、とりわけ単一民族云々ほど子供っぽい、自分勝手な言い分はあるまいと思う。現在私たちが享楽している輸入文化の多くは、他民族社会の種々異なる文化や価値観の血みどろの戦いの中から生まれ、培われた。自由にしろ、民主主義にしろ、そうだ。命をかけた切磋琢磨の中で多くの血が流れ、多くの生命が失われ、これらを養分として自由や民主主義の概念も育った。そして私たちはこの上ずみだけを輸入し、近代国家(あるいは先進国)を名乗っている」。
「日本の世論はベトナム戦争中、熱烈に他国の解放闘争を支持し、その反面、武器の部品やモーターバイクや電気製品をしこたま輸出して得た繁栄を直接間接に享受することに、何ら疑問を感じなかった」「こうした難民への冷たさ、無関心さは、為政者や政府の役人だけの責任ではあるまい」「日本政府のいい気な言い分は、私たち一人一人の、いい気な発想を反映したものではないのか。この辺に感じられる、私たち一人一人の無意識の心の貧しさを、私はときおり空恐ろしく思う」
 なぜ難民がでるのか、それを理解しようとしないのも「基本的にはこの心の貧しさからだろう。最初から理解しようという気持ちを放棄して、もっともらしく辻褄だけ合わせようとするから、短絡的な回答しか見出せない。進歩的人士は難民が僅かばかりのドルや金の延べ板を持っているのを見つけ、『ほれ見ろ、奴らは旧政権時代の金持ちだ。支配階級だ。旧悪暴露をおそれて逃げてきたんだ』という。保守的人士は逆に、難民たちの伝える〝残酷物語″の尻馬に乗り、『だからいわんこっちゃない。もともと共産主義とは非人間的なものなのだ』とぶつ。支配階級扱いされては漁師のクイ君(著者が与那国で出会った若い難民。自分の意思に反して、たまたま難民船に乗り合わせてしまった)もたまるまい。非人間呼ばわりされては、いま死に物狂いで国造りをしているハノイの指導者たちも心外だろう。政治やイデオロギーを拠り所にする限り、難民問題への理解や解決は永久に生まれないと思う」
「北ベトナム戦車隊の入城は『解放』であったのか、『占領』であったのか。『占領』と名付けることは明らかに誤りだろうが、それならば、陥落前のサイゴン住民を支配したあの必死の空気は何だったのか、また、あのおびただしい数のソ連製の戦車群を目にしたときに私自身の全身を包んだ、あの、何か荒寥とした感覚は何だったのか」
「西側諸国の度重なる無理解によって、ベトナム革命勢力は年とともに硬化し、その後の苦闘を通じて鉄の集団になった。当初からホー・チミンは共産主義者であったかもしれない。しかし、イデオロギーを国民の幸福に優先させる類いの、妥協を知らぬ共産主義者ではなかったことは、幾多の挿話が証拠だてている。現在(1970年代後半)のベトナム革命の進行ぶりは、カンボジアなどにくらべるとはるかに穏便なものではあっても、本質的にはやはり仮借のないものであるように見える。仮借ない政策を取らなければならないほど、国は荒れ、立場を異にした人々の心は相離れてしまっているのだ」
 西側の介入前、1940年代にベトナム革命が達成されていたら、「超プラグマチックなベトナム人の体質、国土の豊かさ、そして厳しい歴史を生き抜いた民族的英知などから推してみても、ソ連、中国、ましてや北朝鮮のような硬直した社会主義国家にはならなかったのではないだろうか」
「ハノイ首脳の言明や報告のはしばしには、いかにも非オーソドックスな、いわばベトナム型の現実主義的な発想がしばしば顔を出す」「毛沢東の『能力に応じて働き必要に応じて生産を分配する』思想ではなく、『労働に応じて分配を得』、しかも人間の物欲を労働の刺激剤として是認する」。民族解放の文句が国民を奮い立たせる大義としての輝きを失うと、「すかさず〝人間らしい″物欲の是認を持ち出す点など、やはりイデオロギーごりごりというより、生きた政治ぶりというべきなのだろう」「すでにベトナムの修正主義は始まっている」

 ベトナム革命直後の1970年代後半の記述である。現在(2020年直前)のベトナムのあり様を言い当てている。
 たった2回のベトナム旅行ではあるが、私が受けた印象も、この国の庶民の混とんとしたエネルギーにあふれる現実感、時にわれわれ日本人にとってはあきれるほどのガメツさをみせる逞しさ、だった。もっとも、これはベトナムに限らない。これまでに訪れた、たいがいの発展途上国の庶民(貧乏人)は現実的であり、エネルギーに満ちていた。「引きこもり」が社会問題になるようなことは、ありそうにない。均一閉塞先進社会育ちの私は、そんなふうに感じている。

小畑弘已著「昆虫考古学」

2件のコメント

 昆虫考古学とは、遺跡から見つかる昆虫の遺体や卵、土器に着いた虫の圧痕などから、当時の生活環境などを再現しようとする学問である。著者は土器に残されたコクゾウムシの痕跡などから、縄文時代人の意(衣)食住の実態を知る「圧痕家屋害虫学」のパイオニア。
1章2章の「昆虫たちの自己紹介」や「家屋害虫とは」「世界の昆虫考古学研究」「昆虫のタフォノミー」などの項は、専門的で素人にはとっつきにくいけど、そこを読み飛ばせば、がぜん面白くなる。

「鎌倉時代になっても路地がトイレ代わりに使われ、高下駄がトイレのスリッパだと知ったときはショックを受けた。中世ヨーロッパにおいても、おまるに落とされたモノは階上から路上に捨てて処理されていたので、路上はモノだらけであり、ハイヒールの起源も高下駄とまったく変わらないものであった」

 トイレ跡からはコナラ属の木につく虫たちが見つかる。「トイレから『おつり』が帰ってこないように葉っぱや枝を沈めた結果と考えられ、それらはいわばトイレ用品というべきものである」。そういえば思いだした。私=ピカテンがヒマラヤ山中を徘徊してトレッカー用のゲストハウスを泊まり歩いたときのこと。ぼっとん便所の脇に枯れ葉の山が置かれていた。用を済ませた後、使用者はおのおのその枯れ葉を自分の分身にふりかける。高床式のトイレの便槽側面には、し尿のかき出し口があって、枯れ葉ごと畑の肥料になっていた。道路わきの斜面では、若い女性たちが枯れ葉を集め、大きなかごで自宅に運んでいた。「写真、撮ってもいい?」と尋ねると、快諾してポーズを取ってくれた陽気な娘さんたちだった。(参照

 著者がタイ東北部で調査した際、「コンビニに入るとスナック菓子のようなパックでムシが売られていたのでホテルでの夜のビールのつまみに買い求めた」「タイ東北部は知る人ぞ知る昆虫食王国であった」。私=ピカテンもかれこれ10年以上も前に、タイの北部を彷徨っていて何度か昆虫を食してみた。屋台でたくさんの種類の昆虫が売られていた。一応料理されていたが、多くは油で揚げたものが多かったように記憶する。食ったら、どれも川エビのから揚げに似ていた。

 北海道南端、白神岬の北東6キロにある箱崎遺跡の縄文時代前期末の土器片から、貯蔵したコメやクリを食害するコクゾウムシの圧痕が見つかった。クリもコクゾウムシも本来、北海道には存在しなかった。「箱崎遺跡のコクゾウムシは、津軽海峡を越えてきた東北円筒土器文化圏の人たちによって無意識のうちにクリとともに運び込まれてきた」。やっぱり、その時代から津軽海峡を越えた人や文化の行き来があったのだ。「縄文は海峡を越えて」というわけである。

 土器の中には、昆虫のほか、エゴマやマメ類の圧痕も見つかる。土器の表面だけなら偶然かもしれないが、土器胎土内にびっしり混入していることもある。これは当時の人たちが意図的にやったことのようで、「それは種子をまく行為とまったく同じであり、土器という大地に種実を埋め込むことによって、種子や実が再び生まれてくるという、再生や豊穣を願って行われた行為と思われる」。
当時の人たちはコクゾウムシをクリやドングリの生まれ変わりと考えていたのかもしれない。「クリやドングリから出てくるコクゾウムシは、彼らの大切な食料を加害する害虫ではあるが、ドングリやクリの化身と考えられていたのかもしれない」

地蔵ゆかり写真展「キリングフィールドに生きて」

コメントを残す

 もう少しましな写真を撮りたくて、最近、写真ギャラリーを覗く機会が増えた。今日(11日)も街に出たついでにキャノンギャラリーに立ち寄ってみた。
 あいにく休館で、展示の入れ替え作業が行われていた。作品はまだ床に置いたまま壁に立てかけられて並んでいた。入口から覗きこんでいたら、展示作業の人が「こんな状態でもよかったら、どーぞ」と言ってくれたので、ありがたく見せてもらった。
 一見してレベルの高さに驚いた。カンボジアの坊さんたちを撮った連作だが、そのドキュメンタリー性もさることながら、シュール絵画を見るような、良質の芸術性に富んでいる。明と暗、光と闇、黒と赤、コントラストを印象的に使って、深い味わいがある。そして美しい。
 ただきれいなだけの写真は、どこでも目にすることができるけど、これだけ格調の高い写真には初めて出会った(こちらの写真鑑賞歴が始まったばかりなせいかもしれないけれど)。
 
 私は、これまで人類のあしあとをたどりながら、現地の普通の人々の写真も撮ってきた(このブログの右端に並んだリンク集の中の「写真アルバム 地球徘徊」参照)。そのうち、自分でも小さな写真展を開いてみようか、などと空想していたけれど、この「地蔵ゆかり写真展」を見て、レベルの違いを痛くツーカンした。こりゃ、かなわん。
 同じ写真なのに、どーしてこうまで違うのか? 比べること自体が間違っている、と言われりゃ、それまでだけど。
 

地蔵ゆかり写真展

 9月12日~9月24日9:00~17:30(土日、祝日休館) 札幌市中央区北3条西4丁目、日本生命札幌ビル1F、キャノンギャラリー

カナダ娘がやってきた!

コメントを残す

 エリーズから、「とうとう日本行きのチケットを買った」とメールが届いたのは、彼女が日本に来る2日前だった。そして東京に着いて4日目、オレに会いにわざわざ札幌まで足を伸ばしてくれた。

 エリーズ。カナダのかわいいお嬢さん25歳。働きながら今春大学院の修士コースを卒業、仕事も一区切りつけて、4月から10ヵ月間の予定で東南アジアをひとり旅している。

 
 
 
 
 
 

着物を着せて記念撮影。

 彼女と知り合ったのは、インドネシアのロンボク島からコモド経由フローレス島行きの、3泊4日のボートツアーだった。狭い船上の濃密な4日間だったから、15人の参加者の間には、特別な友情(友情というには、オレ1人が圧倒的にトシを喰っていたが)が生まれた。

 その中でも最も若いエリーズが、カンボジア、ラオス、タイ、ベトナムを回った後もオレのことを覚えていて、わざわざ会いに来てくれたのだった。正直うれしかった。

 
 
 
 
 
 

あれれ・・こんな姿になっちゃった

 その彼女が、札幌に来て3日目、円山に登った下りで右足を骨折した。宿泊先の安宿からオレのところに電話が来た。

「ちょっとプロブレムが・・・。足を折った。歩けない」 なんだか情けないエリーズの声が電話の向こうから響いてきた。当地の唯一の知り合いであるオレの所に、SOSを求めてきたのだった。

 医者の診断は全治1ヵ月。宿泊先の女主人のアドバイスと依頼もあって、わが家で引き取った。

 

 折悪しく、そのころわが家ではとんでもない“事件”ですったもんだの最中。しかもオーストラリア行きが1週間後に迫っていた。ともかく安静が必要な1週間だけ末娘の部屋に同居してもらった。

 

 エリーズはケベック州モントリオールの出身。母語はフランス語。旅行中は英語を使うが、母語でない分ゆっくり話す。オレには聞き取りやすい。もの静かで、それでいて物怖じしない、とってもいい娘だ。

 
 
 
 
 
 

足を折ってはどこにも行けず。読書するエリーズ

 東南アジアなんかを歩いていると、ヨーロッパなどの女性(年齢はいろいろ)がけっこう1人でリュックを担いで長期間の旅行をしているのに出会う。汚くて、いかがわしくて、けっこう危なっかしい国もあるのだが、案外平気だ。オレの方が「あんな娘が大丈夫なんだろか?」と人ごとながら心配になる。

 最近は韓国や中国人もけっこういる。だけど日本人はきわめて少ない。日本では若い人が「内向き」になった、とよく言われるが、その表れだろうか? 将来の日本を憂えるなんて柄じゃないが、これまた「大丈夫なんだろーか」と心配になる。 

 

 エリーズは結局、当初予定を1ヵ月ほどオーバーして札幌をあとにした。ケガをした円山登山を勧めたのはオレだったし、こちらの事情で大歓迎とはまいらなかったのには内心忸怩たるものがあった。

 で、元いた会社の同僚のキタさんに頼んで、エリーズを彼の自宅に招いてもらった。昼食もご馳走してもらった。その度に、オレも「じい役」として彼女に付き添い、ご相伴に預かった(う~ん、じい役でしかないのが悲しいねぇ~)

 

 エリーズが去って間もなく、同じボートツアーで一緒だったアメリカの青年チャーリーからメールが届いた。

 「ガールフレンドとカザフスタン、ウズベキスタン、キルギスを旅行しています」とあった。インドネシアからいったん米国に帰ったあと、また再び旅に出たらしい。

 あ~ぁ、オレもどっかに行きたくなったなぁ・・・

ギプスにこんないたずら書きをする茶目っけもある

TaProhmの改修は、もうやめてくれぇ~っ!

コメントを残す

 アンコール・ワット遺跡群は規模も美しさも、これまで訪ねた遺跡の中では群を抜いている。日本人観光客が多く訪れるタイのアユタヤやスコータイとは比べものにならない。

 個人的にはワット本体よりアンコール・トムの方が好きだ。建造物主体のワットに対し、トムの大石彫や大レリーフが、私の好みに合う。

 

 もっと好きなのは、Ta Prohm。建物の一部や石塀が崩れ、廃寺を思わせる雰囲気が漂っている。その崩れた石材を巨木が抱き込み、生き物のようなその根が石と石の隙間に入り込む。悠久の時間の流れを感じさせる独特の景観。日本の援助できれいに修復され、石畳の通路なども整備されたワットやトムに比べると、規模の上ではひとまわり小ぶりだが、ひと味もふた味も違った趣がある。

 

 2年ぶりに訪れたら、このTa Prohm遺跡でも改修工事が始まってしまっていた。正面入り口からメインの建物にかけて、通路の建設工事が進んでいた。裏に回ると石塀に足場をつくって改修工事が行われていた。建物本体の修復もされたらしく、立ち入り禁止区域が減っていた。

 

 崩れかけた古い建造物の独特の味わいとは不釣り合いな、コンクリートも使ったまっすぐな規格通路。なんとも雰囲気が壊れる。ここもワットやトムと同じように、あまりにもきれいに整備されてしまうのだろうか?もったいない。

 石材に食い込んだ巨木を取り除いて、建設当時の姿に戻すなんて無謀なことは、まさかしないだろうとは思うが、いささか心配。

 

崩れた石壁の上に立つと、足元がぐらつく石材もあるから、修復工事は観光客の安全を考えた上での処置なのかもしれない。

でも・・・立ち入り禁止区域をもっと増やしてもいい。他では得難いこの雰囲気、景観を残すため、廃寺然とした現状を維持してほしい、と鄙びた雰囲気好きの萎びた男は切に願うのであります。

変貌激しいカンボジア

コメントを残す

 2年ぶりにカンボジアに行って、その変化の激しいのに驚いた。

 

 タイとの国境からアンコール・ワットのあるシェムリアップまでの道路が、すっかり舗装されていた。2年前はあっちこっちで工事中。バスの窓の隙間から土埃が煙のように入り込んできて、体中が真っ黄色になった。その工事が完成した。国境のポイペト―シェムリアップにかかる時間は半分に短縮された。

 まずポイペトの町の印象が、がらりと変わった。2年前に初めてこの町に着いたとき、正直なところ不安を覚えた。

 町の中はゴミだらけ。道路はもちろん未舗装。そこをたくさんの荷車が列をなしていた。年寄りから10代前半に見える子供までが、木製の枠を取り付けた大きな荷車を押していた。

 2年前のポイペト。荷車の列

 

 彼らの服装は土埃にまみれ、貧しいのは一目で分かる。朝は国境の入管事務所前にたくさんの空荷車が列をなし、開門と同時にタイ側に走り出す。タイ側の市場で山ほど物資を買い付けてカンボジア側に戻ってくる。

 メイン通りから裏道に入ると、さらにすごかった。履き古した靴やボロ切れのような古着の山と並んでゴミの山。路面は地面が見えないほどゴミで覆われていた。

 

 今は裏道も含めて道路が舗装され、ゴミの山も一掃された。メイン通りに面して真新しい3、4階建ての建物が建ち並んだ。ゲストハウスなどの宿泊施設が多いようだった。心なしか荷車を押す人の数も減ったようだし、着ている衣服もましになったように見える。

 

 アンコール・ワットのあるシェムリアップの郊外には、外資系とおぼしき高級ホテルがいくつも進出した。

私は前回と同じゲストハウスを利用した。ここはもっぱら国内の旅行者や隣国タイ、カンボジアからの出張者が利用している。1泊の値段は5~7$。

これに対し、これら高級ホテルは100$以上。泊まったことがないから確かなことは言えないが、広い敷地に外観も豪華。カンボジアの庶民には無縁の施設である。

 

町の中心部からアンコール・ワットに通じる道路は、もともとがこの国には不釣り合いな幅広い観光用舗装道路で、道路脇の樹木は手入れが行き届き、ゴミも落ちていなかった。その外国人観光客向けの「顔」が、この2年間でさらに徹底された感じ。

昼間は町の中で物乞いを見かけることが、ほとんどなくなった。袋を担いでゴミだめをあさる子供の姿も見かけなくなった。少なくとも観光客が多い中心街からは一掃された。

 

夜、地元の人が利用する街外れの路上食堂で飯を食っていたら、物乞いがテーブルの前に次々と現れた。子供が来た、子供の手を引いた女がきた、腹を減らした男が来た。断っても断っても、後を絶たなかった。必ずしも乞食を専門?にする人々ばかりではなさそうだ。

つまりは町から物乞いが全くいなくなったわけではないようだ。想像するに、観光客から見える場所からは一掃されたのではなかろうか?

 

近郊の村々からシェムリアップに仕事を求めて人々が集まってきている。外国からの裕福な観光客の増加で経済は拡大している。一方で、物価の値上がりも激しいという。発展途上国が通り抜けなければならない宿命みたいなもんか?

 

トンレサップ湖の観光客用船着き場は、貧しい漁師が住む運河河口から少し離れた場所に移っていた。近くには観光客向けの新しい施設も出来ていた。かつて船着き場のあった運河河口付近に目をやると、アシとカヤでつくったような粗末な家が、以前と同じように並んでいた。

「Oh! ホルツ・ヒム」偶然の再会

コメントを残す

 アンコール・ワットのある町シェムリアップに着いた日。人とバイクと車がごちゃごちゃになって混雑する道路を、リュックを担いで歩いていた。

 脇からトクトク(バイクが荷台を引くタクシー)の運転手が声を掛けてきた。

 またか、これで何度目だろう。

 No thank you. No thank you.

 いささか、うるさいなぁ、と思いながら振り返ると、ヘルメットの下に見覚えのある顔があった。

 「や、ホルツ・ヒムじゃないか!?」

 

 そう、2年前にここに来たとき、客を探していた彼と知り合い、1週間ほど行動を共にした。シェムリアップから150キロほど離れたストーン村に住む彼の実家や、トンレサップ湖岸の彼の奥さんの実家にも行った。最後の日には、彼の妻や友人も交えて郊外に出かけ、夕日を見ながらのお別れ会を開いてくれた。

 実直な27歳。2年前はまだオートバイの運転手だった。新妻は妊娠中だった。家族のため、これから生まれてくる子供のために稼ぎの良いトクトクがほしい、と言っていた。この2年のうちに、念願がかなったらしい。

 中古のトクトク。実家の前で

 

再会した日は客席に妻と1歳半の息子、それに知り合いの女性2人を乗せていた。今日は仕事を休み、私用で出かけていたようだ。帰宅途中に道路脇を歩く見覚えのある私のリュックと後ろ姿を見かけ声を掛けてみた、と言う。

 もともと私もシェムリアップに着いたら、彼の携帯に電話をするつもりだった。電話番号が変わっていたら連絡のしようがないけれど、彼がよく客引きをしていた近くのゲストハウスに行けば、つかまえることができるかもしれん。ゴールデン・ウィークという名前の、前回宿泊したこのゲストハウスを目指して歩いているところだった。

それにしてもすごい偶然である。否、ちょうど通りかかったのは偶然だろうけど、われわれに気がつくなんて、すごい記憶力、視力、注意力。

 

今回も1週間ほど彼と行動を共にした。アンコール・ワット見学、彼と彼の奥さんの実家再訪、そして最後の夜は、彼と妻、息子、それに裁縫学校に通うため兄夫婦のもとに身を寄せている19歳の妹も含めて、2年前と同じように郊外に出かけた。彼が大枚をはたいて買った鶏の丸焼きと炊きたてのご飯を持って。

 夜のお別れピクニック

 

自宅にも寄ってみた。2年前は土の床がむき出しで、窓のない倉庫のような長屋の一室だった。今度の部屋は床にビニールシートが敷いてあった。窓もあった。あったけど板壁の一部が外側に跳ね上がる、ガラスのない窓だった。衣類、鍋釜類も増えていた。暮らし向きも少しは良くなったようだ。

中古のトクトク購入に600$かかったという。このうち300$は自分でこつこつ貯めた。残り300$は母親が貸してくれた。

 

日本に戻った私は、彼の家族やストーン村での記念写真を人数分プリントして郵送した。受け取ったら投函してもらう約束で、切手を貼り私の名前と住所をあらかじめ書き込んだ絵葉書を彼に託してきた。

写真を郵送してから2週間たっても返事がない。片道5日間くらいで着くはずだから無事届いていたら、折り返し絵葉書が来るころだ。そう思っていたら彼から電話が来た。

心配したとおり写真は届いていなかった。郵便局に確認に行ってもらったが、見つからないという電話が再度かかってきた。

こちらとしてはどうしようもない。前回のときもやっぱり届かなかった。

 

 次回行くとき、まとめて写真を持って行き直接手渡そう。彼と電話で約束した。今度は雨季あけの10月ころ。湖面が大きく広がり、乾季とはまったくその姿を変えると言われるトンレサップが見られるだろう。

貧困暇人にお勧め、バンコクから陸路で行くアンコール・ワット

コメントを残す

 

  1月16日から2月1日まで1617日で、カンボジアのアンコール・ワット遺跡群を見に行って来た。タイのバンコクから陸路、国境を越えた。このコースは2年前に逆コースを通っているから、だいたい勝手が分かる。交通費が安く、清潔な安宿がある。

 

 まず関空-バンコク往復旅費は航空代金が26,500円、その他もろもろが加算されて計41,250円。2人で82,500円。

 

 1月16日北京乗り継ぎで夕方バンコク着。空港からタクシーでカオサン通りへ。たしか料金は400バーツくらいだったと記憶する。1バーツは2.8円前後。FourSonsInn(エアコン、ホットシャワー、ツイン、1室600バーツ)に2泊。付近には1泊200300バーツのゲストハウス多し。

カオサンの夜は盛り上がる

 

  18日タクシーでバンコク駅へ。カオサンでタクシー、トクトク(三輪タクシー)に値段を聞くと200バーツと吹っかけて来たが、通りで流しのタクシーをつかまえると53バーツ。

国境の町アランヤプラテートまで列車で5~6時間、たったの48バーツ。ただし午前5時55分と午後1時5分発の1日2本しかない。3等クラスしかないので椅子は堅く、置き引きドロボーが多いことで有名だが、風景や地元民を眺める楽しみがある。

 アランヤプラテート駅からトクトク(2人分40バーツ)で、かねて知ったるMarketHotelへ(エアコン、ホットシャワー、ツイン、1室300バーツ)。プールあり。2泊。

 20日トクトクで国境へ。80バーツ。途中、ビザの手配をする業者のところに連れ込まれたが、断固拒否。業者に頼むと1200バーツ。国境で自分で取得すると1000バーツ。張り紙には20$と表記されていたが、ドルでは受け取らず、バーツを要求された。5割増しの勘定。多分、ここの役人どもの懐に転がり込むのだろう。国境でのビザ取得は簡単。

 バスでシェムリアップに行くつもりだったが、誘われて乗り合いタクシーに。2人で15$。シェムリアップでは、2年前に1週間ほど世話になったGoldenWeekGuestHouseへ(扇風機、ホットシャワー、ツイン、    1室7$)。3泊。アンコール遺跡群見学は別途入場料とトクトク代必要。

 美しいアンコール・トムのレリーフ

 

 23150㌔ほど離れたストーン村へ。村のゲストハウス(扇風機、ホットシャワー、ツイン)200バーツ。

 24日シェムリアップに戻り、GoldenWeekGuestHouse2泊。

 25日トンレサップ湖遊覧

 26日バス(4$くらい)でポイペト経由国境越えアランヤプラテートへ。MarketHotel2泊。

 28日バンコクへバスで3時間200バーツ。中心部の中級シティ・ホテルPratunamParkHotel(バス・シャワー、エアコン、ツイン)3泊。延泊割引で3泊分計5000バーツほど。

 31日夜、タクシーで空港へ。

 2月1日未明発北京経由で関空に午後1時半着、夕方千歳着。

 

 今回は連れがいたので、ちょっと良さそうなホテルやレストランに入ったりして、いつものひとり旅より出費が多くなったが、札幌-関空の往復旅費や国内宿泊費を含めても1人15万円はかかっていない。時間に余裕のある人にはお勧めコース。宿泊は1人も2人も1室なら同じ値段だから、2人連れがお得。 

安部公房「密会」

コメントを残す

 評論家なら、うまいこと書くのだろう。ホントかウソか良く分からんことを、なんとなくそれらしく書いて。本当は無意味でも、意味ありげで難解な自己陶酔的表現を用いて。

 安部公房の超現実的な作品は、私の手に余る。余るけどなんだか面白い。

 

 ある夜、妻と寝ていた「ぼく」=「男」の家に、救急車が乗り付け、わけの分からないうちに妻が運ばれて行った。妻の行方を探すうちに病院の「副院長」=「馬」が深く関わっているらしいことが分かってくる。「馬」の下半身は他人の下半身。彼はインポテンツの「治療」を行っていた・・・

 この小説の奥付をみると、刊行は1977年、すでに著者は臓器移植が普通になった現代の医療を見通していたのだろうか?

 

 ここまで書いて、タイで「病院斡旋」をなりわいとしている在タイ日本人から聞いた話を思い出した。

近年、性転換を希望する男女が多数、日本からタイに行くのだそうだ。日本で手術を希望すると、それが許可され、実際に手術を受けるまでには長い時間がかかる。費用も高い。その点、タイは割と簡単、費用も安い。

 この斡旋屋によると、

「費用は100万円くらい。女から男になるのは胸と子宮を取り除くだけだから簡単だけど、男から女になるのは大変だ。新たに胸と膣をつくらなければならない」

ふーん、そんなもんかねぇ、素人考えでは、男→女はチョン切るだけだから簡単なような気もするけれど。

 

 脱線した。小説に戻る。

「男」=「ぼく」が乗り込んだ(そして、いつの間にか取り込まれた)病院は迷路のような造り、そこに住み着いた人々も魑魅魍魎というか、なんというか、得体が知れない。のれんに腕押しみたいなもどかしさと不安。

得体の知れない病院というものを、作者はこの小説で暗喩したのだろうか? いや、そんな直接的な比喩といったものを意図したのではないのかもしれない。よく分からん。分からんが、なんだか面白い。

Older Entries