印東道子編「人類大移動 アフリカからイースター島へ」

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 国立民族学博物館が、人類の移動を全地球規模で考える共同研究に取り組んで、今年は最終年の5年目に当たる。「人類の移動誌――進化的視点から」と名付けたこの共同研究に参加しているメンバーを中心に、13人の研究者が分担・共同執筆した。

   テーマごと執筆者が異なる場合、ある部分はやけに専門的だったり、逆にぽっかり抜け落ちる部分があったりして、しばしば全体像が分かりづらくなる傾向がある。この本は700万年前にアフリカで人類が誕生してから、進化を重ねて20種以上の人類に枝分かれし、現生人類(新人、ホモ・サピエンス)だけが全地球上に広がった様子を、要領よく明らかにしている。コーディネートの勝利であろう。

   「出アフリカ」の謎の解明、アメリカ大陸やオセアニアへの移動、ネアンデルタールと新人の関係、縄文人と弥生人の出会い、類人猿の観察から考えられた人類社会の進化・・・などが、コンパクトにまとめられている。人類進化と移動に少しでも関心のある読者には、格好の入門書。やさしい記述で素人にも分かりやすい。

    一般教養書的ではあるけれど、内容は最新の知見が盛り込まれている。新人にネアンデルタールのDNAがかすかに混ざっている、とするニュースが昨年流れ、私は眉唾かなと思っていたが、これは本当のことらしい。

   ネアンデルタールと同じ旧人に属すると考えられる、シベリアで見つかった「デニソワ人」が、新人と混血してサフル人(オーストラリア原住民、パプアニューギニア高地人など)になった。それ以前にサフル人から分離した、アンダマン諸島やフィリピンのネグリトは、デニソワ人とは混血しなかった、など最新のDNA研究がもたらした成果は目を見張るものがある。

    私個人は、DNA分析に代表される「科学的」研究が、本当に正しいのか、一抹の不安を持っている。科学や統計処理には、たいてい仮説あるいは前提があり、かつ誤差を伴う。全面的ではないにしろ、部分的に覆ったり、訂正を迫られる時代が来ることはないのだろうか?

     ともかく、私の「人類の足跡を訪ねる」放浪に格好のガイド・ブックが現れた。ちなみに、この本の中に私の撮った写真も1枚使われている。私の無益な貧乏旅行も少しは役に立ったようで、ちょっとウレシイ。みなさ~ん(レナ・ジュンタの口調で)、買ってあげてくださいね~。1、400円、朝日新聞出版。

賈蘭坡・黄慰文著「北京原人匆匆来去 発掘者が語る“発見と失踪”」

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 北京郊外の周口店で、裴文中によって最初の北京原人化石が発見されたのは1929年。著者の賈蘭坡は、大学を卒業した1931年から裴文中の下で発掘にかかわり、間もなく裴文中に代わって周口店の発掘作業を指揮した。1936年に発見された2個の北京原人頭蓋骨化石は、彼の手によった。

 スウェーデンのアンダーソンによって周口店遺跡が発見された1921年に始まり、加、仏、米、墺の研究者の支援を受けながらの発掘作業は、戦争と文化革命によって中断されたものの数十年の長きに及ぶ。科学者らしく事実中心の淡々とした記述で、ドラマチックに脚色されてはいないが、発掘者たちの熱い思いが行間から伝わってくる。

    著者と裴文中との化石の解釈をめぐる論争なども、自分を第3者のように客観視するなど、記録性を備えている。目配りが利いている分、素人にはちょっと煩雑に感じられる部分もあるけれど、内容は信頼性が高い。

    私個人の関心からは、化石が戦争中に行方不明になるまでのいきさつと、発掘に関わった米人研究者ワイデンライヒが「北京原人には食人の風習があった」と推定したことの2点が、特に興味深い。

 

    北京原人化石の失踪について確実に言えることは、ワイデンライヒの中国人助手2人の手で梱包され、1941年11月末、アメリカ大使館に届けられたところまで。

    戦後になって松本清張らたくさんの人がこの問題を取り上げている。著者はこれらの著作にもまんべんなく目を通している。清張作は「小説風に書かれていて、誇張が多い」。

    戦後間もなく、「日本皇宮博物館で北京原人化石が見つかり、米国自然歴史博物館に引き渡され保管されている」などの不確かな情報や報道が飛び交った。実際は、この化石はジャワ原人だったようだ。以来、北京原人の化石はようとして行方知れず。

 

    食人の風習については、頭蓋骨の数に比べて少なすぎる四肢の骨、骨についた傷跡、焼いた跡、などが根拠になっている。食人の風習については原人だけでなく、現生人類つまりホモサピエンスの時代になってからも、広汎にかつごく最近まで続いていたのではないか、と私は思っている。たしか三内丸山などでも、それと疑われる遺物があったはずだ。

     食人の風習というと、「おぞましい」あるいはキワモノと受け止められるせいか、きちんと研究された報告が少ないようだ。だけど文化・社会の変遷、しいては人類の進化を考える上で、重要な鍵が隠されている可能性がある。

「人間が人間の唯一の敵」になったことが人類進化の原動力になった、と考える研究者もいる。「人間が人間の食料になる」ことだって、ありえないことではない。人類が飢餓状態から解放されたのは、人類の歴史の上ではごく最近のことなのだから。私の先祖が人食い人種だったとしても、私はいっこうに構わない。

下川裕治編「アジア路地裏紀行」

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 フリーランスのジャーナリストを中心に8人のライターが、路地裏に象徴されるアジアの日常を、自らが深く関わった人々の姿を通して報告している。

 バングラデシュの役人に奉公人として身売りされた少女、サイゴンのシクロ(自転車タクシー)こぎ、モンゴル・ウランバートルの切手売り男・・・一見すると、いずれもひどく貧しい。

 筆者たちはいずれもアジアの路地裏に「ハマった」人たちである。通りすがりの旅行者の受け止め方とは、ひと味違う。

 マニラのストリート・チルドレンを見て、善意に満ちた外人ボランティアは「まとめて施設に入れてやりたい」と思うが、チルドレンたち本人はハタから見るほど不幸ではない。

 筆者の浜なつ子は思う。「彼らは束縛が大嫌い。外国人がどんなに優しい気持ちで接しようと、彼らの世界とは無縁な場所にいるのだということをよくよく承知しておく必要がある」

 警官がワイロを要求するのもしばしばだが、現地の人は「まあ、警官も生活が苦しいからね」と許してしまう。

 長谷川まり子は、ネパールの施設でボランティアをした。その施設は、インドの娼窟に売られたネパールの少女を救出し、保護している。長谷川も「安っぽい、同情に基づいた慈善のまねごと」であることに気づいていた、と自らを書く。

 いずれの筆者もが「アジアの路地裏で癒され、生きるよりどころに出会っている」。経済的な豊かさだけの尺度では測れない、エネルギーのようなものが、いわゆる底辺の生活者にはある。

 俺も路地裏みたいな生活の場に興味がある。残念ながら1ヶ所に通い詰めたことはないから、所詮通りすがりの旅行者でしかないけれど、共感を覚える部分が多かった。いつかこんな「路地裏」で半年くらい過ごしてみたい。

後藤正治著「清冽 詩人茨木のり子の肖像」

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 半日がかりで一気に読み終えて、ボーっとしている。著者の筆力によるところもあるけれど、茨木のり子という詩人の、背骨がすっくと屹立したような、詩作と生き方に、すっかりアテられてしまった。

 以前ここに書いたように、私は詩歌を解さない。でも、この詩人の名前は知っていた。1990年代半ばに使っていたスケッチブックに落書きが残っている。茨木の「自分の感受性くらい」の一節である。どこかで目にしてメモしたものだ。

 

『初心消えかかるのを

 暮らしのせいにはするな

 そもそもが ひよわな志にすぎなかった

 

 駄目なことの一切を

 時代のせいにはするな

 わずかに光る尊厳の放棄

 

 自分の感受性くらい

 自分で守れ

 ばかものよ』

 この「ばかものよ」が私に向けられているようで強烈だった。

   おっと、この本の紹介を忘れた。本のサブタイトルを見れば一目瞭然だけど、詩人茨木のり子の評伝である。読書の楽しみを十二分に味わわせてくれる。日常のくだらないことに心悩ませている自分を、しばし忘れさせてくれる効用もある。私のイイカゲンな文章でこの本を要約しても始まらないから、詩人の作品を抜粋させてもらおう。

『戦争責任を問われて

 その人は言った

   そういう言葉のアヤについて

   文学方面はあまり研究していないので

   お答えできかねます

 思わず笑いが込みあげて

 どす黒い笑いの吐血のように

 噴きあげては 止り また噴きあげる

 

 三歳の童子だって笑い出すだろう

 文学研究果たさねば あばばばばとも言えないとしたら

 四つの島

 笑(えら)ぎに笑ぎて どよもすか

 三十年に一つのとてつもないブラック・ユーモア

  

 野ざらしのどくろさえ

 カタカタカタと笑ったのに(以下略)』(「四海波静」)

 当時、これほど直截に自らの考えを述べた人がいただろうか。皇室タブーが根強いわが国では、どのメディアも北朝鮮のキム王朝顔負けの、猫なで声のような(北鮮のあのおばさんアナウンサーとは対極の、だけど同類の)歯の浮いたような物言いしかしない。

 茨木のり子は元来が政治的人間ではない。いわんや「群れたがる」「尻馬にのる」のをよしとする風潮とは真逆の姿勢を貫いた人である。作品にも写真にも、周囲の人たちの茨木評からも、きりっとした昔懐かしい日本の女性像が浮かんでくる。

 茨木のり子は、自分の死後に知人・友人に送るための「別れの手紙」を残していた。簡素にして十分な別れの言葉である。自分が死ぬときもかくありたし。棺桶に入るのが間近な人、まだだけど少しは脳裏にかすめる人に一読をおすすめします。

ありがたや、近代医療さまさま

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 生まれてはじめての入院・手術だったので、面白がってわがアタマの病気のことをこのブログに書いたら、何人かの友人から心配するメールが寄せられた。アタマの中が出血したと聞けば、みなさん一様に後遺症のことを訊ねてこられる。

 先日、2度目にして最後の検査を受けてきた。血腫のあとは完全に消滅していた。医師から「脳に勢いがある」と褒め?られた。左脳と硬膜の間に血腫ができて、手術前は脳全体が右側に圧迫されていたのが、今は正常な位置に戻っているのがCTスキャンで確認できた。後遺症はない。ただアタマの表面に5センチほどの手術跡が残っているだけである。

 頭痛、右手のしびれ、口のもつれ、ひどい耳鳴りは消えた。今思うと、病気がわかる数ヵ月前から夜中に右足がしばしばつった。脳の圧迫によってけいれんが起きることもあるらしいから(診断から手術までの3日間、てんかん防止の薬を飲まされた)、もしかしたら右足のけいれんも血腫に関係があったのかもしれない。それも今はない。

 硬膜下血腫は、脳に関わる病気のなかでは最も簡単に治療できる病気らしい。これが今から数十年前だったら・・・こうも簡単に完治しなかったろう。MRI(磁気共鳴画像)だのCTスキャンだのがなかったら、発症の初期に発見されることもなく、障害が顕著になってから「あたった」とか「ちゅーぶーになった」とか言われてボケ老人、悪くすると廃人扱いされたのであろう。ひるがえってわが悪運いまだ尽きず。

 すでにおやじの寿命より10年も長生きしてるし、有用なことをしてるわけでもないから、そろそろおさらばするのはかまわないけど、身動きならなくなって、まわりや国家の世話になるのは、まだ、ちぃーと困る。

 そう考えると最近の医療技術の進歩には感謝しなければなるまい。ありがたや、ありがたや・・・

野町和嘉著「写文集 ナイル」

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 野町さんはアフリカなどを舞台に活躍しているフリーランスの写真家。1980年から82年にかけて、のべ14ヵ月間をかけて踏査したナイル流域の写真と記録である。踏査後に出した写真集「バハル(ナイルを現地語でこう呼ぶ)」は土門拳賞を受けた。著者の出世作のひとつと言える。この「写文集 ナイル」は「バハル」を改編・改題して文庫化した。

 スーダンからウガンダに達する白ナイルの源流、ルウェンゾーリ(別名・月の山)では、ディンカやヌバなどの裸族を撮った。雌牛の性器に顔を埋め、膣に息を吹き込んで刺激を与え、ミルクを出させるシーンなど刺激的な写真が並ぶ。

 青ナイルの源流はエチオピア高原に発する。高原の都市ラリベラは、欧米のキリスト教とは異なる、エチオピア独自のキリスト教の聖地でもある。「すさまじいボロをまとった」人々の中に、「思わず振り向きたくなるような美人がぽつりぽつりいる」。

 私は昨年、エチオピアを旅した。ラリベラには行かなかったが、エジプトやケニア、タンザニアとは違った魅力的な女性を見かけた。気のせいかな、と思っていたが、やっぱりそうだったんだ。

 エチオピア・オモ地域の山中深くに住むスルマ族は、女の下唇に円盤を入れる奇妙な風習を持っている。この風習の由来について2説ある。ひとつは奴隷商人から、もうひとつは強力な他の部族から、女を守るためだったという。要するに女を掠奪されないよう、あえて奇形をほどこし、そのグロテスクさを「美しい」と言いくるめて、民族の伝統・文化としてきたのだそうだ。私にはにわかに信じがたい説である。ホントかね?

 奴隷狩りが行われていた時代、奴隷商人の手を逃れ、あるいは奴隷商人の手先となって奴隷狩りを実行した強大部族に追われ、弱小部族が深い山中に逃れて生き延びたのだそうだ。これは、ありそうな話ではある。

    女たちが整形に走り、男たちも植毛だの化粧だのにうつつを抜かす「文明人」。彼我の差はいかほどだろうか?どっちも奇習といえば奇習、大差ないという見方だってできるかもしれない。

蟄居の日々

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 今日はまだ1歩も家の外に出ていない。多分、これからも外出しないだろう。1日中家の中だけで過ごすことになる。ほとんど家ごもり、冬ごもり。

 今朝の最低気温はマイナス10度を切った。こう寒くちゃ、用もないのに外を出歩く気になれん。

 いつもなら庭に設けた鳥のえさ台までは行く。それが毎朝の日課だ。裏のベランダから5歩くらいの距離。そこを往復するのが唯一外に出る機会、というような情けない日々が続いている。

 昨日からの寒さのせいか、いつもは顔を出すシジュウカラと雀が、今朝は姿を見せない。昨日の朝、えさ台に置いたヒマワリの種と米がそのまま残っていたから、今日はえさ台往復の日課さえ省略した。

 

 一昨日、モンゴルのウランバートルに住む友達から電話が来た。外はマイナス40度だそうだ。

 私も20年以上前、アラスカはブルックス山中でマイナス45度を体験したことがある。インランド・エスキモーの村を訪ねた時である。考えられる限りの防寒をしても1時間とは家の外にいられなかった。

 マイナス20度くらいまでなら、オホーツクや十勝、旭川、釧路の内陸部で経験したことがある。それらの地方に住む人たちからみたら、マイナス10度など“へ”でもなかろうに。

 隠居の身には寒さがこたえる。身も心も、そして懐も寒いからかな?