更科功著「絶滅の人類史 なぜ『私たち』が生き延びたのか」

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 われわれヒト(ホモ・サピエンス)は、他の生き物からかけ離れた特別な存在である。際立っているのは、直立二足歩行、大きな脳、道具製作・使用に代表される文化を育んだこと、など。この3つは密接に関係している。

 鳥や恐竜・爬虫類の一部に二足歩行する生き物はいる(いた)が、直立二足歩行する生物は他にいない。過去にもいなかった。空を飛ぶ、という極めて特殊で難しい技は、昆虫、鳥(翼竜)、コウモリ(哺乳類)で別々に進化したというのに、直立二足歩行という技は、人類以外は選択しなかった。直立二足歩行は、足が遅く、腰などに負担がかかり、四足歩行に比べてかなり不利なのだ。

 人類はなぜこんな不利な方法を選んだのだろう?

 著者はこれまでに提唱されている様々な仮説を検証する。ちょっと前まで、教科書にまで書かれていた「イースト・サイド・ストリー」は次のようなものだった。

 800万年前、東アフリカ大地溝帯の活動で南北に連なる大山脈が造られた。偏西風が運んできた水蒸気は山脈で遮られ、東側は乾燥化した。樹木のまばらになった東側にいた人類の祖先は、草原に出て直立二足歩行を始めた————

 のちに山脈西側でサヘラントロプス化石(直立二足歩行の初期猿人)が見つかったことなどから、この説が誤りだったことは明らか。

 「人類は直立二足歩行を始めたことで手がフリーになり、石器などの道具を制作したので脳が大きくなった」とする説も厳密には正しくない。「人類は直立二足歩行を始めてから450万年もの間、石器も作らなかったし、脳も大きくならなかった」

 人類が直立二足歩行を始めて、これまでの700万年間に25種くらいの異なった人類が誕生し、われわれ以外は絶滅した。ネアンデルタール(脳容積1550cc)、ハイデルベルゲンシス(1250cc)、エレクトス(1000cc、以上はホモ属)、ドマニシ原人(600cc、エレクトスとアウストラロピテクスの中間種?)、アウストラロピテクス(450cc)・・・

 ヒト(ホモ・サピエンス、脳容積1350cc)と、人類に一番近いチンパンジー(390cc)を比べると、脳の大きさは段違いである。ヒトが他の生き物の中で他とは隔絶した特別な存在であるようにみえるのは、途中の彼らが絶滅してしまったからだ。

 「脳の増大はそろそろ終わりかもしれない。ネアンデルタール人は私たちより脳が大きかったし、昔のホモ・サピエンスも今の私たちより脳が大きかった。数万年前が脳の大きさのピークで、今は下り坂に差し掛かったところのようにも思える」。

  直立二足歩行は長距離移動に向いている。以前、私=ピカテンは「長距離を歩く必要がなくなったヒトは、将来四足歩行に戻る=進化するのではないか」と戯れ言を書いたことがある。脳が小さくなってきているかもしれない、とはついぞ想像もしていなかった。「使わなくなった有料アプリを少し整理している時期」かもしれない、のだそうだ。私自身はここ10年間くらい、脳のアプリを削減し続けているような気がする(関係ないか?笑)。

吉村昭著「深海の使者」

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 先の大戦中、昭和18年ころから日本と独伊間の連絡は、無線通信のみになっていた。共同作戦を遂行するための人的交流や兵器技術・軍需物資の交換が必要とされても、連合国側に制空権を奪われ、飛行機や船舶による連絡は不可能だった。

 そこで考え出されたのが、潜水艦による独訪問作戦だった。敗戦までに任務についたのは、日本の第1級潜水艦「伊三十」「伊八」「伊三十五」「伊二十九」「伊五十二」。片道2ヵ月を超える隠密行動は困難を極め、日独間を往復して日本に戻れた艦は1艦だけだった。他の4艦と多くの潜水艦乗りが深い海底に沈んだ。

 その戦史を、作者は克明な文書記録に加え、数少ない生き残りや多数の関係者の証言を得て、克明に描ききった。史料と証言の隙間を、作家の想像力で埋めたような「半ばフィクション」のノンフィクションが多い中で、著者はあくまで事実に徹する姿勢を貫いている。

 時には乗組員の名前の羅列が、煩わしく感じたりもするけれど、いくつもの秘話や苦闘ぶりがリアルに描き出されていて、長編ながら最後まで飽きさせない。

 在独日本大使館と本国の間の暗号無線は、連合国側によって逐一傍受され解読されていた。盗聴されても意味が分からないようにと鹿児島弁でやりとりした、エピソードも興味深い。それを解読した米陸軍情報部に、父が鹿児島出身でサンフランシスコ生まれの米国籍を持つ伊丹明がいた。彼も、戦争に翻弄された人生だった。

 中学、大学と父の故郷・鹿児島で国粋主義的な教育を受けた彼は、開戦前に両親のいる米国に戻っていて米軍に召集された。鹿児島弁をよく理解できた伊丹は、日本側で交わされた鹿児島弁を正確に英訳した。日米両国への忠誠と裏切り、個人の思想にかかわらず故郷や恩人を裏切る結果になった彼の行動。戦後、苦悩した伊丹は奔放な生活の果て、タクシー内でピストル自殺をして自らの生涯を閉じた。

 昭和18年4月26日、インドの反英独立活動家チャンドラ・ボース(当時ドイツに滞在していた)を乗せた独Uボートと「伊二十九」がインド洋で極秘裏に会合し、ボースたちが移乗に成功した様子もこの本に書かれている。

 ボースは11月に東京で開かれた「大東亜会議」に姿を現し、12月には、インド領のアンダマン諸島に3日間だけ赴き、自由インド独立の旗を掲げた。このことは、拙書「古人類趾巡礼」の第6章「ネグリトに出会う(インド・アンダマン諸島編)」でも触れた(蛇足ながら)。

アンダマン無惨 今日3月25日はアリの惨殺から80年

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 マレー半島に近いインド領アンダマン諸島の州都ポートブレアに、ネタジ・クラブ公園がある。その一角に先の大戦中に日本軍によって殺害されたザルフィガール・アリの墓がある。

 周囲の住民に見守られるように、白い立派な囲いの中に1基だけ存在し、虐殺された若者の存在を伝えている。

「A Regime of Fears and Tears」(恐怖と涙の時代)、「Japanese in the Andaman & Nicobar」(アンダマン・ニコバル諸島の日本軍)によると、以下のようだ。

――日本軍がアンダマンに侵攻して3日目の1942年3月24日、2人の日本兵がアバディーン村(今のポートブレアの中心街)に遊びに来た。2人は路上にいた鶏を追いかけて民家に入り込んだ(一説には女性にいたずらしようとして、民家に侵入したとも伝えられる)。

 これに怒った地元の若者ザルフィガール・アリが、エアガンを発射して2人を脅した。2人は逃げて無事だったが、報告を受けた日本軍は付近の民家を焼き払い、翌朝までにアリを出頭させるよう住民に命令した。

 友人や兄弟にかくまわれていたアリは、後難を恐れた住民や家族の説得で日本軍に出頭した。

 翌25日。アリは全住民が集められた広場に引き立てられ、両腕の骨が折れるまでねじ曲げられるなどの拷問を受けた後、家族のいる前で銃殺された。「アジアの解放者」を名乗った日本軍による最初の犠牲者だった。

 その後日本軍の侵攻でいったんはこの地を撤退した英軍の反撃が、このベンガル湾でも激しくなった。ポートブレアに向かっていた日本の船が、次々と攻撃を受け沈没した。英軍など連合軍の攻撃は正確で、あきらかに日本軍の動きを事前に察知していた。

「島民の中にスパイがいる。連合国に日本軍の情報を伝えている者がいる」

 疑心暗鬼にかられた日本軍はスパイ狩りを始め、英国にシンパシーを抱いている容疑で島民を次々と逮捕した。アンダマンの行政官、警察官、医師、教師など島の有力者が多く含まれていた。彼らは激しい拷問にさらされ、2度と刑務所の外に出てくることはなかった――

 島民への見せしめ、恐怖で支配しようとする意味もあったのだろう。人事不省に陥った島民を、日本兵が繰り返し投げ飛ばし、地面にたたきつける。「まるで洗濯女が、洗濯物を頭上に振り上げ、地面にたたきつけるようだった。島民は、これが日本の柔術というものであることを知り、恐れた」。気絶状態の人間をボロ切れのように、繰り返し投げ飛ばしたのだろう。

 今から10年前、このような歴史を知らずにこの島を訪れた私は、宿泊した安宿のおかみさんから「殺された島民は千人を下らない。主人の祖父も殺された1人です」「殺された祖父は教師でした。義母はもう亡くなりましたが、生きていたころは、よく日本軍の残虐な仕打ちを話していました。捕まえてきた島民を砂浜に埋めて痛めつけ、見ている前で次々と銃で撃ち殺した」

 私は思わず「I’m sorry」と言ってしまったけれど、主人は「それは、あなたの問題じゃない」と一蹴した。

 日本軍の虐待は、島にあったセルラー刑務所の収容者全員に向けられた。この刑務所には、対英独立運動の活動家たちが多く収容されていた。本「The beautiful India  Andaman and Nicobar」」によると

――ある日、600人の収容者が釈放を告げられ、船に乗せられた。海岸から遠く離れた洋上に着くと、日本兵は銃剣で脅し、収容者を海に飛び込ませた。300人が溺死。残りはハヴァロック島に泳ぎ着いた。

 この島には武装したビルマ人(日本軍に協力していたカレン人であろう)が10人いた。彼らは、泳ぎ着いた100人ほどを殺して立ち去った。

  島には食料もなかった。日本兵とビルマ人の残忍な行為からかろうじて生き延びた人々も、次々と飢え死にし、連合軍が再支配した時、たった2人しか生き残っていなかった――

 アンダマンでは今も「Japanese coming , black out coming」の言い回しが、慣用句のように使われている。「Black out」が何を意味するか? 単なる灯火管制のことではないだろう。日本軍のアンダマン島民虐殺にかかわる表現であることは間違いない

ネグリトは新参者?

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 朝日新聞出版の「人類大移動」(このブログのサイエンス・ブック参照)を読み返していて、ふと疑問が生じた。東南アジアの各地に点在して生存するネグリトは、アジアに到達した現生人類(ホモ・サピエンス)の先陣のように思い描いていた(このブログの「ネグリトは出アフリカの生き証人?」参照)が、彼らより先にこの地に到達していた人たちがいたのかもしれない。

 国立遺伝学研究所の斎藤成也教授が、ネアンデルタール系デニソワ人のDNAについて以下のように紹介している。

「デニソワ人は、現代メラネシア人(パプアニューギニアとブーゲンビル島の人びと)やオーストラリア先住民、およびフィリピンのネグリト集団には数パーセントのゲノムを伝えたが、東アジア、マレーシアやアンダマン諸島のネグリト集団からは、デニソワ人との混血の証拠は見出されなかった。このことは、デニソワ人が東南アジア方面に拡散した時、現在の東アジアや東南アジアに分布している人間の祖先集団は、まだ東南アジアにはいなかったことを示す」

   さらに、新人の移動シナリオとして次のように描く。「15万年ほど前にアフリカを出た新人は、海岸線に沿ってユーラシアの南部に拡散。そのあいだに、レバント地方(中近東付近)にいたネアンデルタールと混血した。彼らの一部は、氷河期当時、半島となっていたスンダランドからさらに南下し、サフル大陸に移動した。そのあいだに東ユーラシアのどこかで、デニソワ人の祖先集団と混血した。彼らの子孫がサフル人(オーストラリア原住民、パプアニューギニア高地人、メラネシア諸島人)」

「アンダマン諸島、マレーシアとタイの国境地帯、フィリピン諸島のあちこちに点在するネグリト人は、5万年以上前にサフル人と分岐し、デニソワ人の祖先集団とは混血しなかった」

 この項を最初に読んだとき、具体的に何を言おうとしているのかよく分からなかった。フィリピンのネグリトとデニソワ人の混血についての記述も、前後で矛盾しているように思われた。

 この記述からは、少なくともアンダマンのネグリトはデニソワ人とは混血しなかった、と読みとれる。そしてネグリトが到達する前に、すでにサフル人の祖先がこの東南アジアに来ていた。つまり、ネグリトは出アフリカ集団の第2波、あるいは第3波だったことを示唆しているように思われる。

 ヨーロッパのネアンデルタール人、南シベリアのデニソワ人の遺伝子解析が進んだのは、ここ1、2年のこと。しかもこれらの解析にはいろいろな仮定が入っているから、頭からそのまま信じることは出来ないが、旧人とされ新人とは別枠で考えられてきたネアンデルタールの人類進化上の位置付けや、これまで6万年前ころとされてきた「出アフリカ」の年代について、大幅な修正が必要なのかもしれない。

チャールズ・ダーウィン著「ビーグル号航海記」上中下

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 ダーウィンが進化論の着想を得た、1831年から5年間にわたる南太平洋の調査記録である。日記体裁のこの航海記は岩波文庫にして3冊分になり、アンダマン徘徊中のひまつぶしには格好だった。

 博物学者ダーウィンがビーグル号に乗り込んだのは22歳の時。のちに著した「種の起源」で、生物進化の実例として引き合いに出されるガラパゴスでの観察記録をはじめ、動植物、鉱物学、民族学などダーウィンの関心は多岐にわたっている。

 その多大な観察記録は学術的であると同時に、時にジャーナリスティックでもある。

 その中で、私個人の関心を引いたのは、南アメリカ最南端のフェゴで行われていた食人の記述。

「冬期に餓えて窮迫すると、彼らは犬を屠殺する前に、老婆を殺して喰うことは確実である」。フェゴの「土人」の証言によると「犬はカワウソをつかまえる。婆さんにはつかまえられない」。つまり老婆は犬ほど役に立たないから食糧にする、というのである。

 アフリカを出発した人類が、ユーラシアからベーリング海を越えて北アメリカに渡り、最終的にたどり着いたのがフェゴだった。つまり「グレート・ジャーニー」の終着点。

 ダーウィンがビーグル号でこの付近を探索した当時、フェゴの原住民たちは、かつて北部ユーラシアや北アメリカ時代には持っていたはずの「衣」などの文化を失い、先祖がえりしたような半裸の生活だった。冬期間の寒さを防ぐためには動物の毛皮を素肌の上に羽織っていた。

 食人の習慣は、近年までインドネシアなどの民族に見られた。研究者たちはこの習慣に、餓えや食糧と結びつけた解釈よりは、「敵のエネルギーを取り込むため」などと儀礼や宗教的な意味合いを見てきた。

 本当にそうなのか?「共食い」という、現在のわれわれがおぞましいと見なす行為から目をそらしたい、そんな無意識が学者たちの解釈に反映されてはいやしないか?人間を即物的な食糧と見なすことは不可だろうか?宗教などを生み出す前のわれわれの先祖は、共食いをタブーとしていなかったのではないか?

 そのフェゴの「土人」も絶滅した。奇しくもダーウィンが書いている。

―――ヨーロッパ人が入りこんだところでは、どこでも、死が原住民を追いまわしているように見える。広くアメリカ、ポリネシア、喜望峰を見てもよい。同じ結果が存在している。これには白人だけが破壊者となるわけではない。マレー系のポリネシア人は東インド群島の一部で、黒色の土人を同様に駆逐した。人種間にも異種の動物間と同様のことが行われるらしい―――

インドの“山谷”とチャイタンさん一家

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 南インドの都市ティルパティに1週間以上滞在した。何をするというわけでもなく、市内をふらふら歩き回っていただけだが、ある日早朝、たくさんの男たちが街角に群がっているのにでくわした。

 インドで人が群れているのなど珍しくもないが、この時はいつもと雰囲気が違った。まず女が交じっていない。みな労働者ぽいスタイルをしている。

 近くの人に聞いてみた。やっぱりそうだった。男たちは、仕事にありつこうと路上で待っていたのだった。ふた昔前の「山谷」である。

 カメラを構えてみる。どーも、低い位置からではうまく撮れない。どこか高い所はないか?

ちょうど近くのビルの3階ベランダから、ロープに吊したかごが地面に下りてきた。路上で待ち構えていた男が、何か品物を入れると、かごはするすると3階に引き上げられた。

 ベランダの男と目が合った。

「そこから写真を撮りたいんですけど~。ベランダに上がらせていただけませんか~」。少しずーずーしいと思いながら天を仰ぎ、半ば身振りで上の男に頼む。男はあっさり「上がっておいで」―――

 ビルの1、2階は衣料品店、3階部分はこの衣料品店を経営するチャイタンさん一家の住まいだった。ベランダから写真を1枚撮ったら、すぐおいとまするつもりだった。

「お茶でも1杯いかが」。ありがたくチャイをいただく。

 チャイタンさんは24歳。母親との共同経営でこの衣料品店をやっている。半年前に結婚したばかりの新妻、医大生の妹との4人暮らし。

 しょうが味のチャイを飲み終えて、おいとまごいをすると

「朝飯でも食べて行きなさい。チャパティを用意するから」

――――こんな親切に思いがけず遭遇するのは、貧乏徘徊者の特権でしょう――――

 チャイタンさんの話では、路上で待ち受ける男たちの9割は、この日のうちに仕事にありつけるのだそうだ。日給はだいたい300ルピー(約500円)。ほとんどは道路工事や建築関係の仕事ということだった。

貧乏旅行者の日常食バナナ

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 インド・アンダマンでは、よくバナナを喰った。朝飯がわりに喰った。移動中は弁当がわりに喰った。辛いインド料理に、胃腸がへたってきたかな、と思ったときはバナナかビスケットに、お茶で済ませた。

 これにリンゴでもあれば十分。しかし、リンゴは、日本なら店頭に並べるのさえ躊躇しそうな、小さなヤツが1個20~40ルピーもする。これに対しバナナは1本1~3ルピー(1ルピーは約1円70銭)。

 「スィートバナナ」とか「モンキーバナナ」と呼ばれる、1本が一口大のバナナは、十数本も付いた1房が10ルピーくらい。甘くてうまい。

 宿のカミさんに「あんた、バナナ好きだねぇ。毎日じゃないの」とあきれられた。

 いや、ことさらバナナが特別に好きなわけじゃない。1ヵ月以上もインドにいると、辛いのが恐ろしくて何を喰って良いか分からなくなる。あれこれ思い悩んで注文し、余りの辛さに、3分の1も喰わずに逃げ出したこともある。

 バナナなら何も悩む必要がない。それに衛生的にも抜群だ。この暑さである。朝に作った料理でも、午後にはいたみが来る。アジア・アフリカの開発途上国に比べると、インドの食堂の衛生管理はしっかりしているように思うけど、それでも路上食堂などでは「ちょっと鮮度が落ちてる」と感じることがある。

 バナナなら黒ずんではくるけれど、これで腹をこわしたという話は聞いたことがない。あまりに痛みが激しければ、その部分だけ捨てればいいだけのこと。ほこりをかぶっていても、皮をむけば中実の衛生状態を心配する必要はまずない。

 安くて衛生的で、重たいけれど携帯には便利。すぐにエネルギー源となる。アジア、アフリカを行くわが貧乏旅行には欠かせない。

 インド2ヵ月間で何本のバナナを喰ったか? 記録していたわけではないが、百本は優に下るまい。2百本までは喰ってない、とは思うけど・・・

逆さ四つん這い全裸男と偽原人Pikathenthropus Crawlithus

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 南インドのチェンナイからバスで4時間ほどの町ティルパティで不思議な男とすれ違った。場所はヒンズー寺院のそばの交通量の多い表通り。時間は人通りの多い昼飯どき。

 やせこけた男が一糸まとわず、両手両脚を使って前方からやって来た。

 両手両脚で歩くと表現すると、ほとんどの人は四つんばいを想像するはずだが、この男はその逆、顔は天を仰ぎ、腹を上に向けていた。股間のイチモツを周囲の人々にあえて開陳するかのように(これをカニ歩きと称するらしい)。

 はいつくばって前進するのがcrawl(クロール)なら、この男は背泳ぎスタイル、つまりbackstroke。ただし進行方向は背泳ぎのように頭の方ではなく、足の方に進んでいた。

 一瞬のうちに行き交う車の陰になったから、なんのことやら分からないうちに通り過ぎてしまった。あとで思い起こすと、いくら「なんでもありのインド」でも相当に不思議な光景だった。気違いなのか、それとも何かの修行なのか? 

 インドは「Incredible India」をうたい文句にガイジン観光客を誘致しているが、文句なく「信じらんな~い」光景だった。

 二足歩行を始めたのを人類の誕生と考えると、ヒトは600~700万年前くらいまでさかのぼることができるらしい。二足歩行は長距離を移動するのに適した歩き方だから、長い距離を歩く必要がなくなった現代人には、そのメリットもなくなった。

「後ろ脚だけで歩くのは疲れたから、両手を前脚に戻して四つ脚で歩こうかな」と考える、新種のヒトが出現するころかもしれん。重たい身体を支えるには、やっぱり四つ脚の方が有利だ。陸に上がった動物が、自分の体重を持てあまして再び海に戻って鯨類になったように。(鯨が今のような巨体になったのは、海に戻った後だから、この説は多分まちがい)

 四足歩行に進化した人類は、私が勝手に名付けて「Crawlithus」(はいつくばるヒト)。よし、今後は偽原人「Pikathenthropus Crawlithus(ピカテントロプス・クローリタス)」を名乗ることにしよう。略して「ピカテン」・・・などと暑さにやられたアタマで妄想した。

 インドに着いて間もないころ、ビーチ・シューズをサンダル代わりにして街を歩いた。底の薄いシューズは、アスファルトの熱を直に伝えて、すぐ足の裏に水ぶくれができた。現地の人たちは裸足で歩いても平気なのに、我ながら情けない。彼らのかかとは靴底のように分厚く堅い。

 チェンナイで知り合い、フンドシ一丁になって一緒にウィスキーを飲んだ(私はさすがに躊躇して上半身裸になっただけだったが)ホテル学校教師のダース氏は、水ぶくれがあちこちにできた私の足を持ち上げ、足の裏を指先で押しながら「こんなに軟らかいんじゃ、しょうがないなあ・・・」と嘆いた。

 こんなやわな足では、「二本足で歩く」という、人間を人間たらしめている行為には、さっぱり役に立たぬ。やっぱり未来の人間は、四足歩行するしかしょーがない。

 フェリーのベッドがビニール製だからと不満を言い、バンブーハウスは蚊が入るから「いやだ」と逃げだし、新しいサンダルを はけば決まって靴ずれを起こす。「原人」を自称するには、ダース氏の言うとおり、あまりにもひ弱、やわである。

 そういや、あのダース氏、私の足の裏をなで回した、その手でチーズの皮をむいてくれた。う~ん、なんか相当に複雑な味がしたような・・・

ティルマラの帽子屋

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 ふだんインド人はあまり帽子をかぶらない。日差しをさえぎるのに十分な濃い黒髪の持ち主が多いように思う。

 南インドのヒンズーの大聖地ティルマラの寺院入り口前に、膨大な数の帽子を積み上げて売っている帽子屋が何軒も軒を並べていた。買う人がいるのかしらん?と見ていると、引きも切らず客が訪れ、帽子を求めていた。

 ティルマラ参拝者の多くが、男女とも髪の毛を刈り、頭を丸めて来る。この日のために急に髪を落としたことは一目瞭然である。私のような年季の入った坊主頭(ハゲ)と違って、髪をそった跡が青々としている。

 高地にあるティルマラは、チェンナイなどよりは涼しいとはいえ、日差しはチェンナイにも増して強烈である。この日差しをモロにくらっては、熱くてかなわない。脳みそまでが沸騰しそうになる。

 にわか坊主頭の善男善女たちも、これにはたまらず、男は帽子で、女はショールのようなもので頭を保護することになる。ふだん帽子を持っていない男たちは、ティルマラに来てはじめて帽子を買い求める。多くは野球帽だが、なんとなく似合わない。編み笠なんかなら、よく似合うだろうに。

 以前にも何度かこのブログに書いたが、直射日光の強烈な赤道付近の地域には、ハゲが少ない。この地帯では黒髪は単なる飾りではない。紫外線や熱線を遮る必需品なのだ。

 この点、日差しの弱い北欧などはハゲが多い。頭髪の多寡と肌の色は、きっと強い相関があるはずだ。北方の住民にとって、ハゲは生存や子孫を残す上で不利ではなかったのだろう(女にもてるか、もてないかは別にして)。

 インド人は、欧米人よりずっとハゲが少ないけれど、東南アジアやアフリカの国々に比べるとハゲの割合が多いような気もする。インド人はヨーロッパ圏とも共通するコーカソイド系とされているようだが、ハゲの存在もそのことの反映なのかも?

ベンガル湾を泳いで渡れ

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 アンダマンに着いた翌々日の3月28日、数週間後にはチェンナイに戻るべく、帰りのフェリーを予約しようと船会社のオフィスに出かけた。目論見ではアンダマンに3週間くらい滞在してインド本国に戻り、残る1ヵ月弱で南インドからスリランカに足をのばすつもりだった。

 ポートブレアからチェンナイに行く4月のフェリーは10日と22日出発の2便だけだった。

「4月のチケットはすでに売り切れました」

船会社のカウンターの前でエーッ!と絶句。「じゃ、5月のフェリーの日程は?」

アンダマン滞在許可は30日間、4月24日まで。でも15日間の延長が可能だ。

「5月のフェリー日程は4月にならないと決まりません」

 チェンナイで1週間もフェリーを待った上、ポートブレアでさらに無駄な時間を過ごすわけにはいかない。

 やむなく帰りは空路を利用することにした。来る前にインターネットで調べたら、片道5千ルピー(約8千円)ちょいの安売り航空券があったはずだ。

 ネットカフェに走り、帰り便を探索した。アンダマンのインターネットの速度は、恐ろしく遅い。おまけに始終停電する。どうしても思ったような安売り航空券にたどり着くことができなかった。

 あきらめて旅行代理店業も兼ねている、宿のおやじに頼んだ。おやじさんも必死にネット上を探し回った。出てくるのは片道1万7千ルピーとか1万5千ルピーといったものばかり。学校が長期休暇に入り、航空券は通常の2倍近くにハネ上がっていた。フェリーが満員なのもそのせいだ。

 さんざ手をわずらわせて、ようやく9千ルピー台の航空券が見つかった。すぐにATMから金を引き出し、おやじさんに渡す。

 よし、これで安心してアンダマン探索に出発できる――。ところが、これもダメだった。どうやらタッチの差で売り切れたらしい。

 おやじさんの悪戦苦闘が続く。「よし、あと600ルピー出せば、多分大丈夫だ」

 どんどん金額が予定をオーバーしていく。

 おやじさんは追加の金を受け取ると、宿の雑用を任せている爺さんを呼びつけた。何やら急いで紙に書き付けると、カネとともに爺さんに手渡し「すぐに銀行に行って、ディポズィットしてこい」と命じた。

 よく分からなかったのだが、どうやら航空券のオークションのような特別な仕組みらしい。

「結果は後日分かる。そのころ、俺のところに電話を寄こせ。多分今度こそ大丈夫だろう」

 少々狐につままれたような気分だったが、このおやじは信用の置ける人物だ。私はアンダマン探索に出発した。

 結果はおやじさんの言う通りだった。その後もすったもんだはあったけれど、滞在許可をオーバーすること2日後の早朝の便に乗ることができた。

 それにしてもアンダマンからインド本国に戻るのに、これほど難渋するとは予想外だった。困り果てている私に「ベンガル湾を泳いで渡れ」と“激励メール”を寄こした諸氏は、ベンガルの海より冷たい?

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