Dmanisi市街から20kmほど離れた、Patara Dmanisi地区のSioni 教会のすぐ横に位置する。渓谷と渓谷に挟まれた小高い崖の上にあり、周辺は城塞跡でDmanisi historic-architectural museum-reserve(national museum)。
トビリシからは、メトロのSamgori駅近くのミニバス乗り場からDmanisi方面行きに乗る。約80km、往きは上り坂でDmanisi市街まで2時間30分ほど。帰りは2時間足らず。片道5ラリ(約280円)。1時間に1便程度のペースで運行されているが、時間帯によってはないことも。
ドゥマニシ市街からタクシーで教会まで30分あまり。往復でタクシー代が30ラリだった。これは交渉次第。私の場合は運良くいいタクシードライバーにあたったのでこの値段で済んだのかも。
後で地図で確認すると、Patara DmanisiにはDmanisi市街から16kmトビリシ寄りのVardisubaniというところで下車すると近い。そこからだと教会まで3kmあまり。ただしVardisubaniでタクシーがつかまるかどうかは分からない。歩くと上り道なので1時間はかかる。
関連記事
メモ ドゥマニシ原人発掘現場への行き方
2015年4月29日
ひとの進化と拡散, トルコ~グルジア~ロシア西部~ウクライナ コメントを残す
ドゥマニシ発掘現場に行ってきた。
2015年4月27日
グルジアの首都から
2015年4月26日
ひとの進化と拡散, トルコ~グルジア~ロシア西部~ウクライナ 5件のコメント
今回の最初の目的地Tbilisiに着いた。ここから85kmほど南、アルメニアとの国境近くで、ドマニシ原人(ホモエレクトゥス)が出土した。なんでも古い城塞の下から見つかったということだ。
ユーラシアでは北京原人、ジャワ原人、新しいところではフローレス原人などが見つかっているが、ドマニシ原人は170万年前と、アフリカ以外では最も古い。
ホモ属以前のアウストラロピテクス(猿人)は、今のところアフリカでしか見つかっていないから、ホモエレクトゥスも多分、アフリカで生まれたのだろう。
人類の”出アフリカ”は少なくとも2度あった。1度はホモエレクトゥスの時代。最後はホモサピエンス。旧人(ネアンデルタール)もまたアフリカで生まれたのかは、まだはっきりしない。
ネアンデルタールの出土はヨーロッパに偏っている。ユーラシアで誕生したことだって考えられる。そのネアンデルタールのDNAが現生人類に、かすかに受け継がれていることが、最近確認されたというから、これまでの単純なアフリカ単一起源説ではなくなるのかもしれない。
ドマニシ原人の系統からネアンデルタールが生まれたのならーーわれらのご先祖の1人となるかも。でも、それなら沢山確認されている原人を、1種にまとめなくちゃならんかも。少なくともホモサピエンスはアフリカ産、ドマニシルートではなさそうだから。
謎解きはこれからだ。(もちろんあたしがするわけじゃないけど)
明日から博物館などを回って、どうやったら現地に行けるのか調べる。この国の交通事情からして、さほど難しいとは思えない。
ロシア入りまでには、まだ2週間あまりある。その間、このまちを拠点にぶらぶらしていよう。幸いこの国はトルコに比べて生活費が安そうだ。宿代は1泊14ラリ、800円もしない。
トルコ、グルジアとも難しい旅ではなかった。ロシアはどうか?まだ、どのルートから入国するかも決めていない。
トゥビリシの街並みは石造りの重厚な建物が並んでいる。トルコのイスタンブールなどに比べると、少し活気に欠けるような印象を受ける。何故か、と考えていたら、看板やネオンなどの突き出しが少ないことに思い至った。
黒海にきた。
2015年4月23日
トルコ北東のトラブゾンという町に滞在している。寒い日が続いている。今日も朝から雨☔。傘がない! 明日はグルジアに入る予定。
暇だからタブレットをいじくり回しているが、写真の取り込みがスムーズにいかん。
ここは観光地じゃないから、ガイジン観光客はほとんど見かけない。英語を話す人もきわめて少ない。みんな親切だから、食う寝ることには不自由しないけど、ちょっと退屈。
宿泊しているホテルは旧市街にある古い建物。俺の部屋はタバコと何か旅人臭のようなしめっぽい臭いがする。確か禁煙室なはずなのだが。
観光客がほとんどいないので、トラブゾンでは相部屋のホステルは見つからなかった。少なくともbooking comには載ってなかった。で、安売りしてたここを見つけた。トイレ、シャワー共同のシングル1泊2000円くらい。朝食込み。
朝食は、ホテルが入っている同じ建物の階下にある外部のカフェで摂る。フロントのにいさんが、そこらへんにあった紙切れに、何か分からんサインをして渡してくれたので、それを持って行ったら、おっかない顔の店のオヤジさんが、パン2個とゆで卵、チーズの破片、オリーブ7、8個それとおきまりのお猪口のような小さなグラス1杯のチャイ(トルコでも紅茶はチャイなんだ!)を出してくれた。
店にはじいさん、オヤジ連中がたむろしていた。1杯1リラ(45円)の紅茶でいつまでも粘っている。近所の顔馴染みのようだ。
俺も紅茶を追加注文して、時間潰し。店のオヤジがイングレ?フランチェ?とか聞いてきたので、ジャポンと答える。
英語を話す者は一人もいない。でも、オヤジ連中は何か勝手にしゃべりかけてくるから、俺もテキトーに答えておいた。
ホテルというイメージからは程遠いこの宿屋だけれど、周りは雑多な小規模店、食堂、旅行代理店、床屋その他が軒を並べ、地元民の生活に近いかんじがある。
トルコという国自体は、これまで俺が訪れた他のアラブ諸国やアジア、アフリカの国に比べて豊か、近代的というか”文明国”のように思われる。その分、これまでの貧乏国で見たような驚きには遭遇しない。
in Cappadocia
2015年4月23日
カッパドキアから
2015年4月20日
トルコのほぼ中央に位置する大観光地にいる。明日、グルジアに近い黒海に面したトラブゾンに向かう。
今日は雨、暇だからブログに写真でもアップしようかと思っていたが、写真の取り込みかたを、すっかり忘れてしまっていた。これからいろいろ試してみる。
イスタンブールにて
2015年4月15日
ひとの進化と拡散, トルコ~グルジア~ロシア西部~ウクライナ 2件のコメント
昨日未明(14日午前1時)、イスタンブールに着き、空港で夜明けを待って、市内を歩き回った。イスタンブールは山坂の多い街で、この1年間の運動不足を痛感した。
わが安宿はボツポラス海峡を挟んでヨーロッパ側に位置する。海峡に近く、部屋は5階にあるのだが、周りを高い建物に囲まれていて、海峡は見えない。
とても清潔で、値段も28トルコリラ(1400円弱)と手頃。ただしエレベーターがない。足腰にガタがくる。息があがる。
たぶん数日後にアンカラに行く。カッパドキアに寄ってグルジア(今は英語読みのジョージアと呼ぶのかもしれない)に行くつもり。
トルコとイラン、イラクの3ヵ国の国境に近いイラク側クルド人地区にあるシャニダール洞窟に行きたかったのだが、イスラム国の勢力圏に近いので、諦めた。
イスタンブールはなかなかきれいで、活気にあふれている。人は親切で、昨日は地下鉄改札口でもたもたしてたら、通りすがりの男が料金を払ってくれた。トルコ語で[ありがとう]は何て言うんだったかな?
ロシアへ
2015年4月10日
ひとの進化と拡散, トルコ~グルジア~ロシア西部~ウクライナ ドマニシ, ネアンデルタール、, ホモサピエンス コメントを残す
近々、西部ロシアに向けて放浪を始める。
ロシアは西端から東端まで横断したかったのだが、観光ビザでは1カ月間しか滞在が許されない。あの広いロシアをたったひと月では、ただ移動ばかりすることになりそう。で、今回は黒海からモスクワにかけての西側だけを見てくることにした。
この地方には、コスチョンキなど数万年前の人類遺跡が集中している。人類がシベリアに進出し、さらにベーリング海峡を越えてアメリカ大陸に渡るための「橋頭保」と目される地域である。
ロシアの遺跡には、旧人(ネアンデルタール)、新人(ホモサピエンス)両方の痕跡が残されている。互いに文化的な交流、交配もあったらしい。
ロシアに隣接するグルジアのドマニシ遺跡にも寄りたい。ここは、アフリカ外では最古の170万年前のホモエレクトスの化石が出ている。
20万年ほど前にアフリカに生まれ、10万年前にアフリカから出て世界中に広まったホモサピエンスが、現生人類の源流であることは間違いないだろう。
でも、サピエンスに先立つ数十万年前からユーラシアにいた、ネアンデルタールの血もわれわれの中にかすかに流れているらしい。
このネアンデルタールはどこで生まれたのだろう?アフリカか、あるいはユーラシアか?もしユーラシアだとすると、ドマニシ原人から進化したかも・・・。
現日本人は、古くから列島に住み着いた縄文人と、後から大陸からやってきた渡来人のあいの子(ハーフ)だと言われる。出生率に差があったのか、在来の数に比して渡来数が圧倒的に多かったのか、経済的・政治的力関係の強弱のせいか、あるいはもっと違う理由があったのか。アイヌと沖縄人以外の和人は、渡来人の形質が色濃いようだ。
これと同じようなことが、ネアンデルタールとホモサピエンスの間で起きたなんてことは考えられないか?ただし、これはド素人のまったくの空想。
日本からアエロフロートでトルコのイスタンブールに飛び(これが一番安かった)、グルジアに寄った後、ロシア入り。(目論見通りなら)黒海沿岸からモスクワ方面に北上する。
瀬川拓郎著「アイヌ学入門」
2015年4月9日
先住民を紹介するに「自然との共生」を強調するあまり、とかく「無垢なる自然人」あるいは「聖なる野蛮人」といったイメージで語られることに、私は以前から違和感を覚えていた。
著者は冒頭で見事に言い当てている。
「自然と共生する民」は、閉じた世界に安住してきた未開で野蛮なアイヌという負のイメージを肯定的に評価するために、それを単に裏側からみたものにすぎない」
アイヌは古くから交易の民であった、という著者の見方に接し、曇ったわが眼のうろこが落ちた思いがした。
南の和人、北のオホーツク人などと、常にしのぎを削り、交易によって、ときには戦争や略奪によって物品を手に入れ、文化的にも相互に影響しあって来た。
「異民族との開かれた歴史、人間としてのなまなましい歴史」があったのは、当然といえば当然のこと。アイヌだけがかすみを喰うような聖人であるはずがない。
―13世紀、サハリンに侵出したアイヌは現地の先住民ニヴフと衝突し、ニヴフが服属していた中国の元と半世紀にわたって戦かった―。
―北海道は過去に何度か「黄金島」として注目され、黄金の国ジパングの代表格になった。10世紀の修験者、12世紀の奥州藤原氏の一団の北海道移住は、金採掘が目的だったのではないか、と著者は推測する。「アイヌの歴史は金によって、または金をめぐる和人との関係によって大きく変化してきたのではないか」―
これらの新しい視点は、千年1日のごとく閉ざされた世界に生きてきたように思われがちなアイヌに、ダイナミックな歴史があったことをうかがわせる。
平易な記述で、手軽な新書版(講談社現代新書、840円)ながら、「アイヌに関する名著」と評した書評者もいたそう。私がこれまで読んだアイヌものではいっとう面白かった。
8、9年ほど前、札幌大学の一般向け考古学講座で、著者の講義を聴いたことがある。その時の話は今でも印象に残っている(このブログの「格差の社会史」2006年12月参照)。おとぎ話や神話ではないアイヌの歴史が編まれる日がようやく近づいたのかも、と期待している。
暴論「東京に米軍基地を!」
2015年4月8日
沖縄の米軍基地移転をめぐって国と沖縄県が対立している。
5年前このブログで、「米軍の北海道移転」を自虐的に提案した。半植民地(外地ともいう)沖縄に犠牲を強い続けることに、腹が立ったからだった。
それにしても不思議でならない。「ならば、わが方で米軍基地を引き受けよう」という「男気」ある声が、本土のどこからも上がらないなんて! おかしい。
大ニッポン帝国がアジア各国を侵略した「大東亜戦争」では、本土防衛の防波堤として、沖縄に最後まで戦わせ、そこが壊滅したら本土はさっさと降参して戦後復興を遂げた。その間、沖縄はアメリカに占領されたままだった。戦争中も死んだ兵士は、沖縄と北海道(共に内地ではない)の割合が高かったというではないか。
戦後70年、日本が琉球王国を完全に滅亡させて140年余りを経た現代においても、いまだ彼の地に犠牲を押し付けるのは、沖縄を本土の「下」に見下しているからじゃないのか? 同じニッポン人として、あるいはヤマトンチュとして、ウチナンチュに顔向けできない。情けない。
行政機構、経済の中枢、あるいは文化施設など、輝かしいものはすべて東京に代表される本土に集中させてきた。税金などのカネも必然的に中央に集中する仕組みが出来上がった。
一方で原発やその廃棄物処理施設のような厄介物は地方にばらまかれた。地方の貧困の足元を見て、見返りをちらつかせながら。
沖縄は今、経済的な締め付けが強まるおそれがあるにも関わらず、果敢にも基地撤去を訴えているのだ。
それに本土側がひと言も反応しないのは、ヤマト魂にもとる、サムライの精神に反する、任侠の道にも外れる。合衆国のニッポン州になったつもりで、日本の美風を忘れたか?
今から20年ほど前、内地で持てあまされたアメリカ海兵隊の実弾射撃場(だったかな?)を道東の矢臼別演習場に移した時、当時、政府の役職についていた、かの鈴木宗男氏は「国益だから」と地元首長を強引に黙らせ、自分の選挙区内に引き取らせたことがあった。
本土にも、せめてそれくらいの任侠心?の持ち主がいてもいいんじゃないか?
防衛が一番必要とされるのは、東京をはじめとした本土中央ではないか。かつて「東京に原発を」と唱えた人がいたけど、それに倣って「東京に米軍基地を!」
そ~いや、東京の真ん中に、おあつらえ向きの広いスペースがあるんじゃな~い?