帰宅の途へ

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 今日(27日)、モスクワ経由の便で日本に向かう。イスタンブールとモスクワの間を2往復することになるが、モスクワ経由便が一番安かったんだから、しょうがない。
 28日に東京着。東京1泊ののち大洗からフェリーを利用する。東京から札幌まで船代とバス代コミのに乗るつもり。どうせ水戸に立ち寄るのだから、ちょっと足をのばしてフクシマ原発の近くに寄り道して帰ろうか、とも考えている。
 チェルノブイリを見たための連想、思い付き。重たいバックパックを背負って歩くのはいやだから、大半の荷物は成田から自宅に宅急便かなにかで送ってしまう。
 で、このタブレットの使用もこれにてお仕舞い。このブログも1週間くらいはお休みの予定。見てくれた皆さん、ありがとう。
 それに何より、ロシア、ウクライナ、グルジア、トルコの人たちには大変お世話になりました。そして、ロシアの旅の便宜を図ってくれたK先生と関係者の方々には、お礼の申し上げようもないほど感謝しています。99%読んでないから、まさにお礼の申し上げようがない。

日本に関心を寄せるウクライナの女学生

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 ウクライナを去る前夜、キエフ大学考古学教室の大学院生アレクセイ君と後輩の大学2年生アナスタシアさん19歳の二人と話をする機会があった。
 アナスタシアさんは中世史が好きで、日本の中世にも関心を持っている。少し前から日本語も習っている。
 彼女との会話の中で出てきた日本の名前は、宮崎駿、北野武、村上春樹、金閣寺だった。彼女の知っているのがこの3人と1寺だけというわけではない。たまたま話の中で出てきたのが、これだった。
 いずれもメジャーな名前である。世界に通用する日本ブランドである。
 でも私は、この4者が嫌いというわけではないけど、今はあまり興味を持っていない。少なくとも今現在は。
 宮崎駿は、[風の谷のナウシカ]など最初のころの作品が好きだった。最後のころ、大アニメ映画監督としての地位を不動のものとしてからの作品は、いまいちピンとこない。
 北野武は[この男狂暴につき](たしかこんな題だった)かなにかで見せた迫力ある演技や、ツービート時代のタブー破りのお笑いは新鮮だったし、[北野くんハーイ]や[浅草キッド][漫才病棟]などでみせた作家としての才能もなかなかだと思った。でも、フランスで賞を取ったのち監督として制作した映画作品は、あまり面白いと思ったことはない。
 村上春樹は[世界の終わりとワンダーランド](たしかこんなタイトルだった)を面白く読んだ記憶があるけど、その後の小説は2、3読んだだけで、以来、彼の作品から遠ざかった。
 私の中で3者に共通するのは、大家になってからは興味を持てなくなったこと。
 金閣寺、銀閣寺はまだ見たことがない。銀閣寺のそばまでは行ったけど、閉まっていた。それ以上の関心がないから、それっきりになった。金とか銀とか、名前からして、なーんか成金趣味みたいで、いやだ。
 つまるところ、これは私のへそ曲がりに主な理由があるのかもしれない。
 せっかくアナスタシア孃が挙げてくれた日本の名前。持ち上げるわけにもいかず、おとしめるわけにもいかず。ふんふんと、ただ聴いているばかりだった。
 
 そのアナスタシア孃、この冬、10日から2週間くらいの日程で日本に来たいという。東京と関西で、日本の中世を見るつもり。
 どなたか、東京関西方面の方で、彼女をアシストしてやってもいい、という人いらっしゃいませんか?

イスタンブールは騒々しい

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 ほぼ70日ぶりにイスタンブールに戻って、この街の活気というか、騒々しさをあらためて確認している。
 グルジア、ロシア、ウクライナとももう少し上品で落ち着いていた印象がある。モスクワの通勤時間帯は、みな猛烈な早足で職場に向かうが、イスタンブールのこのごちゃごちゃ感とは少し違う。面白いと言えば面白くもあるんだけど、少々げんなり。
 4ヵ国に加えユーロが加わって、物の値段が高いのか安いのか、すぐには判断できなくなってしまった。
 あと残された3日間、街をぶらぶらしながらお土産でも探すことにする。路上マーケットなんかを眺めるのは好きだが、買い物自体はあまり得てでない。
 面白い被写体を探す意欲も、一眼レフをバッグから引っ張り出す気力も薄れている。まぁ、あとはぶらぶら…これっていつものことだね。

今日イスタンブールに戻る

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 今日(23日)これからイスタンブールに戻る。
 ウクライナには2週間いた。そのほとんどを首都キエフで過ごした。キエフはきれいな街並みで物価も安く、旅行者には過ごしやすい町だ。ウクライナ東部では紛争が続いているようだが、ここキエフでは、そんな不安はまったく感じなかった。
 街を歩く女性の服装は開放感?にあふれ(暑い日が続いていたせいもある)、自由であか抜けした印象を受ける。
 ただし、これは通りすがりの旅行者の表面的な感想。
 自国通貨の下落などで経済的には困難を抱え、海外に仕事を求める国民も多いようだ。東部での戦闘やロシアとの紛争が今後どうなっていくのか、困難な状況をなんとか打開してほしい。 
 今回は、ロシアとウクライナ、そしてグルジア(ジョージア)を歩き、各地で人々の温かさに触れ、世話になった。彼らが元の平和と友好を取り戻す時代が来たらいいなあ~。

 27日にイスタンブールから帰国する。

 

30年後のチェルノブイリ

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事故を起こした4号機

事故を起こした4号機

 20世紀の遺跡チェルノブイリに行って来た。

ここから立ち入り制限。最初のゲート

ここから立ち入り制限。最初のゲート


 ツアーでスウェーデンから来た教師のパールさんといろいろな話をした。スウェーデンなど北欧にとっては、チェルノブイリは今も切実な問題であることをあらためて認識した。
チェルノブイリのモニュメントの前で

チェルノブイリのモニュメントの前で


消えた町、プリーピァッツ

消えた町、プリーピァッツ


 チェルノブイリは原子力発電所から15kmほど離れている。1986年に事故を起こした発電所は、プリーピァッツという町にある。今は、発電所関係者がチェルノブイリの町から通うだけで、住民はいない。
 ここには4基の原子力発電所が並んでいる。事故で崩壊し、コンクリート詰めにされた事故機以外は、事故後も発電を続けていたが、2000年に稼働を止めた。
左端が事故を起こした4号機。右から1,2,3,4号機が並ぶ

左端が事故を起こした4号機。右から1,2,3,4号機が並ぶ


 近くには事故のため、建設途中で放棄されたままの5,6号機も、赤錆びて遺されている。最初の計画では、この地区に12基の原子力発電所を建設する計画だった。
建設途中で放棄された5号機

建設途中で放棄された5号機


 コンクリート詰めにされた4号機は、30年の歳月を経て老朽化した。4号機全体を巨大な半円筒状のドームですっぽり覆う工事が進んでいた。
4号機(右)を建設中のドーム(左)で覆う

4号機(右)を建設中のドーム(左)で覆う


 事故機のそばは今も放射線が強いため、少し離れた場所でドームを造り、完成してから動かして、4号機にかぶせる。
SSC_0752
RSCN5066
この付近の放射線は平常の100倍以上。制限時間の中で記念撮影

この付近の放射線は平常の100倍以上。制限時間の中で記念撮影


 学校、幼稚園、ホテル、集会所、遊園地など、住民が避難したあとに残され、荒れ果てた姿。
残されていた大量のガスマスク

残されていた大量のガスマスク


かの有名な人形

かの有名な人形


幼稚園前に横たわっている

幼稚園前に横たわっている


幼稚園内部

幼稚園内部


学校

学校


学校の掲示板

学校の掲示板


SSC_0750

 繁みの奥にソ連時代に造られた、高さ150m、幅500mの巨大なレーダーがあった。米国からの弾道ミサイルをいち早く察知するために造られた。当時のクレムリンがいかに米国の核攻撃を恐れていたかが窺える。

当時はきっと極秘軍事施設だったんだろう

当時はきっと極秘軍事施設だったんだろう


SSC_0760
SSC_0762

 事故後ほとんどの樹木が伐採処理されたが、30年の歳月が植生を回復、人工物を覆い隠そうとしている。

建物も自然界に飲み込まれようとしている

建物も自然界に飲み込まれようとしている


CSC_0749
 千年後、20世紀の遺跡として発見されるかも。アンコールワットのように。
 立ち入り制限地域内のチェルノブイリには、発電所関係者などの事務所もあり、人も住んでいる。一般の人たちもふるさとに舞い戻って住んでいる。
オフィスの集まった建物

オフィスの集まった建物


制限区域から退去する際の汚染検査

制限区域から退去する際の汚染検査

明日、チェルノブイリを見に行く

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 明日(20日)、日帰りツアーに参加してあのチェルノブイリを見に行くことにした。
 ウクライナに来るまでは、チェルノブイリのことなど、まったく頭になかった。飛行機の中で見た情報誌で、初めてチェルノブイリがこの国の北部、キエフからさほど遠くないところにあることに気がついた。
 ホステルに置いてあったパンフレットで、インターネットのサイトからツアーに申し込むことができることを知った(office@chornobyl-tour.com)。
 サイトによると、1日ツアーは119$から145$。これに英語のガイド、昼飯付きで135$。この国の物価水準からして、かなり高めだったが、申し込んだ。
 前払いの段階でつまずいた。25%の前払いをpaypalシステムで支払うことになっていたが、このシステムがよくわからん😵🌀。最後の段階でつまずいてしまう。システムが?拒否反応を起こしてしまう。
 すったもんだの末、支払い期限が過ぎ、予約はキャンセルに。しようがないから、ホステルの受付の優しいレナ孃に泣きついて、電話で予約をしてもらった。期日が迫っていたので、料金が30%ほど余計にかかってしまった😫。
 ツアーに行って見たからといって何かが分かるわけではないだろう。私のぶらぶら人類遺跡巡りとおんなじである。考えてみれば、チェルノブイリは現代の遺跡でもあるだろう。
 フクシマにも一昨年、一般人が行ける境界線のところまでは行ってみた。避難解除になっても住民が戻らず、地震と津波で壊れた住宅が放置されたままになっていた南相馬市の村上海岸地区のありさまが思い出される。(このブログのサイクリング[フクシマは野生の王国]と[仙台~山形、磐梯山~南相馬~仙台の断続的輪行記録]を参照)

メジリチとドブラニチェフカ行

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 マンモスハンターの家が出土しているメジリチ遺跡とドブラニチェフカ遺跡を、2日がかりで回ってきた。案内してくれたのは、キエフ大学考古学教室の大学院生アレクセイ君24歳。同行予定の女子学生は都合が悪くなって来られなくなった。
 メジリチは、これまでの人類の足痕をたどる徘徊行動のなかでも、心暖かな思い出に残る土地になった。
 キエフのバスステーションから、2時間半でカーニェフ市着。そこにはメジリチ遺跡のすぐそばで農業を営むサーシャ(レオノヴ アレクサンドル)さんが車で迎えに来ていた。キエフ大学のパーベル博士を通して2日間の車提供と運転を依頼した人である。
SSC_0623
 太陽の下で働いているのが一目で分かる、見るからに実直そうな良い顔をした60歳半ばの男だった。われわれはカーニェフ市内でこの夜の宿を求めるつもりだったが、サーシャさんが自宅に泊めてくれることになった。
 長年発掘が継続的に行われ、これまでに四軒のマンモスハウスが出土しているメジリチ遺跡は、カーニェフ市街から車で20分。大学管理の敷地内にあり、周囲は金網のフェンスで囲われている。

マンモス出土の表示がある遺跡敷地

マンモス出土の表示がある遺跡敷地


 雑草と背丈の低い樹木に覆われた敷地内に、発掘が始まると研究者や学生が泊まり込む古びた木造家屋と、これまでの発掘で出来た大きな窪地がある。窪地の中に屋根、壁ともトタンで出来た倉庫のような大きな建物が建っていた。
 その中にマンモスハンターの家が発掘当時のままの状態で保存されていた。
発掘当時のまま保存されている。

発掘当時のまま保存されている。


RSCN5003
遺跡敷地内に建つ、保存施設

遺跡敷地内に建つ、保存施設


 マンモスの大きな骨、数百個が直径6mほどの円内にかたまっている。中央付近には、火を使った跡の炭と、氷河が運んできた細かな土砂の堆積層が交互に現れるのだそうだ。1万5、6千年前、移動生活をしていたホモサピエンスが冬季に利用した、と研究者は見ている。
 この付近一帯は、水場のある低地に向かって緩やかな起伏になっている。川が運んできた養分に富んだ土砂が堆積し、畑作には向いている。寒冷な時代にもマンモスなどが好む草木がよく生い茂ったことだろう。
マンモス村とも称するメジリチ村の住居表示板

マンモス村とも称するメジリチ村の住居表示板


 サーシャさんの自宅は遺跡敷地から50mくらいのところにある。夫婦が食べるためのジャガイモやタマネギ、キャベツなど20種類ほどの野菜を少しずつ作っている。
 2、3を除いて、私が知っている野菜だった。北海道の定番野菜と言ってもいいものばかり。山わさびまで畑の隅に数株植えてあるのには驚いた。
 サクランボ、ブドウ、ベリー類4種類もあった。ブタ2頭、ニワトリ、アヒル、ウサギもそれぞれ10羽~20羽飼っている。モルモットも1匹いた。これは愛玩用か?
 奥さん(レオノヴァ レシアさん)も夫に似た、人の良さが一目で分かる顔の持ち主だった。夫婦が交互に、手入れの行き届いた畑と家畜小屋を案内してくれた。
 [ちょっとついておいで]というレシアさんの後に従って、ぐるりと金網で囲われた敷地内を歩いた。ベリー畑では、黒く熟したベリーの実を一掴みもぎ取って私にくれ、食べてみろ、という。サクッと甘酸っぱい果汁が口の中に広がる。
 サクランボ畑では、放し飼いのアヒルたちがレシアさんの姿を見つけると、われがちに集まって来た。家畜小屋でもブタやニワトリが一斉に騒ぎたてる。枯れ草の中に頭を隠していたモルモットをわしづかみにすると、私の胸に抱かせてくれた。
 彼女の自慢の畑であり、動物たちなのだ。
多種類の野菜を少しずつ栽培している畑

多種類の野菜を少しずつ栽培している畑


自宅前の手作りブランコで

自宅前の手作りブランコで

 夕食は畑の脇のあずまやで、奥さん手作りの料理をいただいた。よく味のしみた肉料理、素朴だけれど旨いジャガイモとベーコン料理、ナスの煮物、キウリとトマトの塩こしょう。ハムとチーズは街で買い求めた物だろう。食前酒はアルコール度50%の自家製ウォッカ?”サモゴン”、さらに白樺に似た木の樹液から作った、これまた自家製のジュース。食後の果物は畑で採れた、小粒だけど甘いイチゴ。
 

これは朝食

これは朝食


 翌日の朝食はウクライナの伝統料理ヴァリニキ、餃子に似た料理で、レストランでは、よく中身がポテト、肉、チェリーの3種類のヴァリニキが用意されている。レシアさんが作ってくれたのは、チェリーの入ったヴァリニキで、蜂蜜を付けていただいた。
 この日はたまたまサーシャさんのお父さん91歳も来ていた。お父さんは近くに住む娘の家に同居している。
心までも暖かく、満腹にさせられた屋外の晩餐

心までも暖かく、満腹にさせられた屋外の晩餐


 長年の夢だったメジリチにも来たし、思いもよらない暖かなもてなしを受け、あーぁ、今日はいつまでも記憶に残るいい1日だったなあ。

 2日目。ドブラニチェフカ遺跡へ。こちらのマンモスハウスは直径4mほど。小さな展示場が設けられていた。

ドブラニチェフカのマンモスハウス

ドブラニチェフカのマンモスハウス


 ここでも、ぼくとつとしたおじいさんが説明役を務めていた。展示場も敷地も普段は閉じているようで、近所に住むこのおじいさんが、この施設の管理も任せられているようだった。

明日からメジリチ遺跡へ

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 明日(16日)から2日間の日程で、キエフ南方100kmあまりのメジリチ遺跡、ドブラニチェフカ遺跡などを訪ねる。
 メジリチ遺跡は、ロシアで訪ねたコスチョンキ遺跡と同様、マンモスハンターの家が発掘されている。2万年前ころ、ウクライナからロシア西部にかけてのこの大平原に、人類がマンモスやその他の動物を追って、広く展開していた。
 この地で住居、衣服、あるいは身体までも寒冷地に慣らし、人類はいよいよ極寒のシベリアへ、さらには北米大陸へと渡ることになる。
 コスチョンキで見た、マンモスの骨で作った家の痕は素晴らしかった。
 実を言うと、コスチョンキのことは、数年前に木村英明共著[氷河期の極北に挑むホモサピエンスーマンモスハンターたちの暮らしと技](このブログの同タイトル参照)を読むまで知らなかった。
 それに対し、メジリチのことは、ずっと以前から知っていた。社会科の教科書だったか、あるいは40年以上前に出版された加藤晋平著の[マンモスハンター]だったか、もう記憶もはっきりしない。
 復元されたマンモスの骨で作った家の写真も載っていた。これは1度は見たいものだと思い続けていた。もっとも、コスチョンキを直に見た今は、復元したものより、発掘状態のままの方が、ずっと迫力があると感じている。
 メジリチには、キエフ大学の大学院生アレクセイ君と考古学教室の女子学生(日本語を勉強中)が、ガイド役として同行してくれる。
 キエフの古生物学博物館で紹介してもらった、キエフ大学のDrパーベルに相談した結果、特別に配慮してもらうことができた。この徘徊老人の酔狂に大学院生まで付き合わせてしまい、少々後ろめたい。
 現場近くまでただ行くだけなら、自分一人でもたどり着けると思うけど(これまで訪れたアジア、アフリカ、南米、中東、タスマニア各地の遺跡のほとんどは、勝手にひとりで訪れた)、メジリチの発掘現場一帯は冊か屏で囲われていて鍵がないと入れない。
 この現場では長年発掘作業が継続している。今年の発掘は6月末からだそう。コスチョンキもそうだったが、ここも財政難で費用の捻出に苦辛しているようだ。

キエフ散策

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 ビジュアル系?アーティスト系?の青年アレックス君の案内で、キエフのドブニエル川沿いと旧市街を歩いた。
 空中遊泳をして中島に渡った。

川面に向かって滑空する

川面に向かって滑空する


スタート前の記念撮影

スタート前の記念撮影


なかなかスリリング

なかなかスリリング


余裕で

余裕で


アップで

アップで

 戻る橋の上で人だかりを見つけた。欄干に人が群がっていた。
キエフSSC_0489
 見ると1人の女性が、バンジージャンプに挑戦しようと、欄干の外側に立っているところだった。

するの?しないの?

するの?しないの?


 装備は万全、あとは決断のみ。はるか下の水面を見下ろし、もう1時間以上もこの状態が続いていた。
 こりゃ、もう見込みなし。早々に見切りをつけて、その横で釣りをしていたおやじを見ていたら、強烈なアタリ。
なかなかの大物

なかなかの大物


 
 旧市街はなかなか味わいのある街並み。
キエフSSC_0487
 公園には小さな祈りの場もあった。
SSCN4944
 散策路に掛かった橋の欄干に、恋人たちの願いを込めた南京錠が、無数にかけられていた。
愛よ、永遠に

愛よ、永遠に


 
おまえ百まで、わしゃ?せいぜい七十でしょ

おまえ百まで、わしゃ?せいぜい七十でしょ


 旧市街にチェルノブイリ博物館がある。
チェルノブイリ博物館

チェルノブイリ博物館


フクシマへの祈り

フクシマへの祈り


 街の中に誰でも弾けるピアノが置いてある。路上アーティストが演奏中。
オープンピアノ

オープンピアノ


 ちょっと疲れたのでカップチーノでひと息。
ブッダだって

ブッダだって


 トイレの鏡でツーショット。
バカ顔で

バカ顔で


 独立広場でポーズをとっていたスタイル抜群の美女を、脇からゲット。
RSCN4899
 [一緒に写真撮らせてもらお]。アレックス君が交渉。
[えーっ!わたしと?]

[えーっ!わたしと?]


 めでたく美女とツーショットならぬスリーショット。
RSCN4901
 高台の広場では、路上アーティストたちが、さまざまなパフォーマンスを披露していた。
シャボン玉遊び

シャボン玉遊び


 アレックス君も子供と一緒に。
ベンチシーソー

ベンチシーソー


 午後8時過ぎ、ようやく日が落ちかかる。夕日を眺めに、たくさんの人たちが集まってきた。
キエフCSC_0477
シルエット美人

シルエット美人

マンモスハンターの復元住宅

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 キエフの古生物博物館で、マンモスハンターの復元住宅を見た。
RSCN4892
 
 マンモスの骨で作った家自体は、上野の国立科学博物館でも展示されている。以前、科学博物館に行ったとき、見たような記憶がある。でもウクライナで見たということに意義あり。
 次は、これが発掘されたメジリチ遺跡を訪ねる。大きなウクライナ地図を買ってきて、情報と照らし合わせた結果、メジリチの位置も見当がついた。
 博物館の研究員に相談したら、バスで2時間くらいで最寄りの町に行ける。そこからはタクシーかなにかで行くことになる。ただし発掘現場の周りはフェンスで囲われていて、一般の人は入れない。
 その親切なマキシムさんという研究員は、[自分はその方面の専門家じゃないから]と、キエフ大学のパベル博士に連絡を取ってくれた。
 パベル博士は、[今週は試験で忙しい、来週なら]ということだった。
 ともかく博士のところで情報を得ることができそうだ。

 ホステルも移った。1泊110UAH、600円くらい。とても快適。即、23日までの予約をしてしまった。
 昨日は公園で偶然、英語のうまいアレックス君という若者と知り合いになった。彼の案内で中心街をひと巡りした。一連の政変と紛争の始まりとなった広場も案内してくれた。
cats41
 彼は無職なので、必要な時に、彼の手助けを借りることができる。電話番号、メールアドレスも聞いた。なかなか真面目ないい若者だ。
 順調なウクライナの滑り出し。

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