2024年、6、7、8、9号・・・

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4月28日、6、7号羽化

4月29日、裏庭に放す

 6、7号を外に放した直後に、室内に戻ったら、あらたに2頭が羽化していた。

 翅がしっかり乾くのを待って、8、9号も裏庭に。成蝶になってしまえば、あとの命は数日間から十数日間だろう。うまく次の世代に命をつなぐことができるだろうか? 春風に吹かれた2頭が、互いにもつれ合うように舞っていた。

 わが部屋の窓から離れの屋根越しに眺める桜は、満開のピークを越え、風が吹くとちらちらと散り始めている。花の命は短くてー。さて、花咲くこともなかったわが人生、あと何回、桜を愛でることができるだろう。

追記; 30日朝、もう1頭(10号)が羽化。5月1日、11号羽化。2日、12号、13号羽化。4日、14号誕生(天井の照明の隣)。6日、15号羽化。12日、16号羽化。14日、17号羽化するも、翅が乾いて伸びる前に床に落下したらしく、翅が縮んだ状態のまま死ぬ。16日、どこからともなく18号誕生。

「アルコール、だいじょーぶですか?」

3件のコメント

 NHKの宣伝をするわけじゃないが、国語辞書編纂を扱ったテレビドラマ「舟を編む」(三浦しをん原作)が面白かった。昨年から続いているラジオ番組「国語辞書サーフィン」(土曜午後10時、お笑い芸人サンキュータツオ出演)やラジオ深夜便の中でときどき放送される「気になる日本語」(NHK放送文化研究所の研究員が出演)も知的遊び心にあふれている。

 最近、といってもかなり前からだが、若い人が使う言葉「ダイジョーブです」に違和感を覚えることがある。

 ウエイトレスが客に「お飲み物、ダイジョーブですか?」

 客が答えて「ダイジョーブです」

 要するに「要るか要らないか」と訊ねたのに対し「要らない」の意味で答えたわけだ。たぶん「飲み物はまだありますか?なくなってませんか?大丈夫ですか?」と訊いたのに対し、「大丈夫、まだあります」「もう十分呑みました。結構です=大丈夫です」と答えたのが、縮まって「ダイジョーブですか?」「ダイジョーブです」となったのだろう。

 手元にある、ずいぶん昔の広辞苑2版(大学入学の翌年・昭和44年に購入)によると、「だいじょうぶ[大丈夫]」の意味として①とりわけ壮健なこと。②あぶなげのないこと。しっかりしていること。ごく堅固なこと。③間違いのないさま。たしかなさま。――と出ている。

 項目を変えて、立派な男子を意味する「だいじょうふ[大丈夫]」も並んでいるが、まあ、われわれがふつうに使っていたのは、上記の②と③の意味だったはずだ。

 5年ほど前に買った電子辞書のデジタル大辞泉には、②③に加えて、次の説明がある

「近年、形容動詞の『大丈夫』を必要または不要、可または不可、諾または否定の意で相手に問いかける、あるいは答える用法が増えている。『重そうですね、持ちましょうか』『いえ、大丈夫です(不要の意)』『試着したいのですが、大丈夫ですか』『はい、大丈夫です(可能、または承諾の意)』など」

 ②③の用法に慣れた私は、一瞬戸惑うこともある。

 前年末に心臓冠動脈にステントを留置する治療を受けた華岡青洲記念病院に、その後の定期的な診察と投薬を受けに行った。この病院には、学生時代からの友人が勤めている。彼から「華岡青洲」と名前の付いた、青洲の出身地和歌山の特別な日本酒をいただくことになっていた。当病院の理事長は、世界初の全身麻酔による手術を行った、かの青洲から数えて何代目かの末裔だそうだ。

 ステント留置を行った主治医からは「酒は、水分不足にならない程度なら飲んでもいい」とお許しが出ている。でも4種類用意された薬の1つには「アルコールは控えること」とも、説明書に小さく書いてあった。当然これはお医者様の言うことに従って、というか、自分の都合のいいように解釈して、「酒は飲んでも良し」と、これまで通り、適量のお酒をいただくことにする。でも俺が毎日のように「酒でも飲もうかな」とつぶやくと、カミさんが「またぁ・・・」と、たちまち不機嫌になる。ぶすっとした表情で不快・不同意をあらわにする。これは、ダイジョーブでない、のサイン。

 病院では毎回、採血する。

 採血前に看護婦さんが「アルコール、ダイジョーブですかぁ?」と訊いてきた。

 ン?一瞬、迷った。受診のあと友人に会って、いただくことになっていた、日本酒「華岡青洲」のことが頭にあった。

 ここはダイジョーブと答えるべきか、ダイジョーブでない、と答えるべきか? 欲しいのなら「ダイジョーブでない」と答えるべきか?

 しかし看護婦さんが日本酒のことを訊いてくるはずがない。採血前に腕をアルコール消毒しても大丈夫か否か、アレルギー反応が「あるか、ないか」を訊ねていることに思い至った。

 治療中の造影剤で、予想外のアレルギー反応に悩まされた。腹や太ももに赤い湿疹のようなものができた。アルコール消毒のアレルギーは、これはダイジョーブだった。日ごろ鍛えた免疫力がある・・

藤尾慎一郎著「日本の先史時代 旧石器・縄文・弥生・古墳時代を読みなおす」

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 今年2月、同じ著者の「弥生人はどこから来たのか」が出版された。本当はそれを読もうと思ったのだが、図書館にはまだ用意されていなかった。で、2021年に出版されたこの本を手に取ってみた。中公新書。

 著者は国立歴史民俗博物館(歴博)研究部考古学研究系の教授。弥生時代の専門家。長らく弥生時代は、紀元前300年前後から始まるとされていたが、近年、それが一気に紀元前9-10世紀にまでさかのぼる、と「訂正」されつつある。そうした弥生時代の見直しを主導した研究者の1人。

 この本では「日本の先史時代を、移行期という視点から通史的に考え」「旧石器時代から縄文時代、縄文時代から弥生時代、弥生時代から古墳時代への移り変わり」を考察した。

 先史時代の時代区分は、幕府の成立や明治維新、太平洋戦争の敗戦などといった西暦何年に始まった、設立された、起きた事象とは異なり、きっちりした年代を決めることはできない。例えば弥生時代の重要な指標であり、経済的な画期でもある水田稲作は、北海道と沖縄を除く九州・四国・本州全体に行きわたるまでに、700年近い歳月がかかっている。つまり、室町時代から現代までの時間に相当する長い期間、水田稲作を行っていた人びとと、まだ始めていない人びとが同時に存在していたことになる。

 記述は専門分野に分け入り、これまでの研究史にさかのぼり、さまざまな先端研究の学説も紹介しながら、最後に自説をちょっとだけ披露する。一般書の体裁ではあるが、なかなか高度で、素人読者にはかなり煩雑、学術書に近い印象。

  弥生時代は1200年間、縄文時代にいたっては1万年間続いたことになっているが、時間的にも空間的(地域的)にも、一様な文化が日本列島を覆っていたとは考えられない。近年のゲノム研究によると、縄文時代の日本列島人は一様ではなく、出自の異なるヒトが住んでいたらしい。日本という国家が成立する以前の時代である。日本でだけ通用する「縄文」「弥生」といった時代区分は、どこまで有効なのだろう? 一抹の疑問も芽生えてくる。

夕日が沈む

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追悼 画家・神田一明さん

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 神田一明さんが亡くなった。ほぼ60年間にわたって彼の作品を見続けてきたが、一昨年秋ころ旭川で開かれた個展の最終日に、本人にお会いしたのが、最後になった。絵に「言葉で意味づけされること」を好まなかった生前の画家を尊重して、彼の作品集を写真で紹介することで、追悼とする。(参照)参照2

自画像 20P  1991

室内A  50 F  1960

灰色の家(廃屋) 100変形 1963

ベッドのある室内 100F 1964

ソファのある室内 120F 1979

たそがれにD 20P  1996 

から松に風渉る 10F  1998

青い港 20F 1998

ジル・ボルト・テイラー著「WHOLE BRAIN  心が軽くなる『脳』の動かし方」

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 著者は重度の脳出血で左脳の機能が停止し、8年間のリハビリで後遺症を克服した神経科学者。その体験を書いた「奇跡の脳——脳科学者の脳が壊れたとき」(参照)は、世界的なベストセラーになり、大きな反響を呼んだ。

 論理・思考的脳と言われる左脳の機能停止で至福の時を体験した著者は、左脳に偏った現代社会の中で、あえて右脳を主役にすえた人生の重要性を説く。

 著者は脳の役割を解剖学的に4つに分けて考える。

 ヒトの脳の外側を占め「考える」役割の大脳皮質。原始的な脳である脳幹とホモ属になってから拡大した大脳皮質の間にあって「感じる」役割の辺縁系。それぞれが左右両脳にある。そこで左脳の大脳皮質をキャラ1(几帳面)、左脳の辺縁系をキャラ2(用心深くネガティブ)、右脳辺縁系をキャラ3(今ここでの歓喜に浸る、能天気)、右脳大脳皮質をキャラ4(包容力があり思慮深く哲学的)と名付ける。

 生きていくうえで大切なのは、ヒトみなが持っている4つのキャラを理解し、その時々で4キャラの「作戦会議」を開き、4つのキャラの間を自由に行き来できるようにすること。「左脳のサイエンスと右脳のスピリチュアルを融合」(訳者あとがき)させることで、「最高の自分を前面に押し出し、目的に向かって人生を歩むことができる」と説く。

 白状すると私=ピカテンには、よく理解できないスピリチュアルな記述が散見される。例えば「宇宙の生命力であり、細胞の意識でもあるキャラ4」など。

 「左脳の意識領域で研究できるものと、右脳の意識領域で測定も再現もできないものとのあいだのギャップを埋めるには、ある種の『飛躍』が必要です。この飛躍は、科学的手法の限界を押し広げ、科学の方法論とスピリチュアル的経験の架け橋になるでしょう」。言いたいことは分からんでもないが、そんな「飛躍」が本当に可能なんだろーか? よくワカラン。

 著者が勧める、あせった時や興奮した時は、自分の息継ぎを意識的に整えること。90秒間をやり過ごしてから対処するなどは、これまで通俗的な指南書などでもよく言われてきた対処法と同じように思われる。宇宙の生命力だの細胞の意識だのと、小難しい理論は抜きにしても、これらは有効だろうとは思う。

更科功著「絶滅の人類史 なぜ『私たち』が生き延びたのか」

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 われわれヒト(ホモ・サピエンス)は、他の生き物からかけ離れた特別な存在である。際立っているのは、直立二足歩行、大きな脳、道具製作・使用に代表される文化を育んだこと、など。この3つは密接に関係している。

 鳥や恐竜・爬虫類の一部に二足歩行する生き物はいる(いた)が、直立二足歩行する生物は他にいない。過去にもいなかった。空を飛ぶ、という極めて特殊で難しい技は、昆虫、鳥(翼竜)、コウモリ(哺乳類)で別々に進化したというのに、直立二足歩行という技は、人類以外は選択しなかった。直立二足歩行は、足が遅く、腰などに負担がかかり、四足歩行に比べてかなり不利なのだ。

 人類はなぜこんな不利な方法を選んだのだろう?

 著者はこれまでに提唱されている様々な仮説を検証する。ちょっと前まで、教科書にまで書かれていた「イースト・サイド・ストリー」は次のようなものだった。

 800万年前、東アフリカ大地溝帯の活動で南北に連なる大山脈が造られた。偏西風が運んできた水蒸気は山脈で遮られ、東側は乾燥化した。樹木のまばらになった東側にいた人類の祖先は、草原に出て直立二足歩行を始めた————

 のちに山脈西側でサヘラントロプス化石(直立二足歩行の初期猿人)が見つかったことなどから、この説が誤りだったことは明らか。

 「人類は直立二足歩行を始めたことで手がフリーになり、石器などの道具を制作したので脳が大きくなった」とする説も厳密には正しくない。「人類は直立二足歩行を始めてから450万年もの間、石器も作らなかったし、脳も大きくならなかった」

 人類が直立二足歩行を始めて、これまでの700万年間に25種くらいの異なった人類が誕生し、われわれ以外は絶滅した。ネアンデルタール(脳容積1550cc)、ハイデルベルゲンシス(1250cc)、エレクトス(1000cc、以上はホモ属)、ドマニシ原人(600cc、エレクトスとアウストラロピテクスの中間種?)、アウストラロピテクス(450cc)・・・

 ヒト(ホモ・サピエンス、脳容積1350cc)と、人類に一番近いチンパンジー(390cc)を比べると、脳の大きさは段違いである。ヒトが他の生き物の中で他とは隔絶した特別な存在であるようにみえるのは、途中の彼らが絶滅してしまったからだ。

 「脳の増大はそろそろ終わりかもしれない。ネアンデルタール人は私たちより脳が大きかったし、昔のホモ・サピエンスも今の私たちより脳が大きかった。数万年前が脳の大きさのピークで、今は下り坂に差し掛かったところのようにも思える」。

  直立二足歩行は長距離移動に向いている。以前、私=ピカテンは「長距離を歩く必要がなくなったヒトは、将来四足歩行に戻る=進化するのではないか」と戯れ言を書いたことがある。脳が小さくなってきているかもしれない、とはついぞ想像もしていなかった。「使わなくなった有料アプリを少し整理している時期」かもしれない、のだそうだ。私自身はここ10年間くらい、脳のアプリを削減し続けているような気がする(関係ないか?笑)。