ベトナム、カンボジア、タイその他、東南アジアの少数民族の初歩的な知識を得べく、「入門東南アジア研究」(上智大アジア文化研)、「東南アジアの民族と歴史」(大林太良)そして「講座 世界の先住民族02 東南アジア」(林行夫ほか共著)と続けて目を通してきた。いずれも入門書・教科書といったおもむきで、もちろん関係箇所だけの拾い読み。
  
 
  「先住民族としての民族的覚醒と自己変革を成しとげたリーダーたちが求めているのは、単に異文化の共生や共存という耳に心地よいお題目を唱和することではない・・・正当な居場所を求める彼らの主張や運動は、具体的には土地回復の切実な要求となって表れている。限られた土地の権利をめぐるゼロサム・ゲームにおいて、その要求は、現在そこに権益を有する個人や、法人や、国家の利益をおびやかすものであり、既存の秩序の再編成を求めることにほかならない。共生が現状を維持したままで仲良くすることを含意するならば、彼らが求めているのは、共生ではなく、今まで存在していなかったところに、物理的、社会的、政治的な居場所を新しく確保することなのである」
  「スペインとアメリカの植民支配を受け、色白で高身長の白人を美と力の具現者とするフィリピンにおいては、縮毛と暗褐色の肌、低身長という(ピナトゥボ火山山麓に住むアエタ民族の)身体的な特徴は、おのずとマイナスの価値を体現する」(以上、「ピナトゥボ・アエタ」の項の執筆者・清水展)
  「先進国が、近代化や産業化の進展と共に払ってきたつけは決して小さくない。しかし、せめてもの救いは、後手後手にまわったとはいえそこに常に物質的な豊かさのみの独走を押しとどめようとする思想、もしくはなんらかのカウンター・カルチャーが付随して生まれてきたことであろう。一方、途上国の先住民社会や少数民族社会にしばしば見受けられるのは、前者の圧倒的独走による歪な発展だ。ところが、そうした歪さを先進国側に身を置く人間が指摘すると、傲慢だという逆批判を往々にして受ける。結局、最良の道は、失敗を最小限にとどめつつ、自らが自らの歩むべき姿に気づくことだ」(「リス=タイなどの少数民族」の項の執筆者・綾部真雄)
   

  う~ん、勉強になるなぁ・・・。少数民族に限らない、経済後進国に通底する問題を含んでいる。
   

  カンボジアのカンポンチャムでカンボジア系カナダ人の男と短い時間だったが立ち話をした。50歳前くらいの彼は、動乱期にカンボジアを逃れ、今はカナダで数学の先生をしていると言っていた。会ったときは、ちょうど里帰りしていたときだった。
  何の話題からそんな話になったのか忘れたが、その彼が現在のカンボジアを指して「カンボジア人は、マネー、マネー。ふた言目にはマネーだ」と自嘲的に嘆いた。
  その彼に対して私は「カンボジア人はフレンドリーだ。ひとがいいよ」と半ばうち消したものの、彼の言葉に思い当たるふしが、ないわけではない。
  カンボジアだけでなく、同じように貧しいベトナムもそうだが、子どもたちが集まって来たと思ったら、手を出して「マネー」とねだる。おとなも釣り銭をごまかす。値段をふっかける。いずれも「円」や「ドル」で考えればわずかな金額、ふだんは「ま、いいか」と分かっていて騙されることもしばしば。そう割り切ってしまえば、あまり腹も立たない。「おれ流自衛策」。
   

  メコン沿いのカンポンチャムには竹だけを編んで造った橋がある。人間だけでなくバイクはもちろん馬車や自動車も利用する。被写体として面白かったので、カメラのシャッターを切りながら、歩いて渡った。
  渡りきったところに、お粗末な掘っ建て小屋があった。中年のオヤジがゲートに座っていて、通行料を徴収している。ゲート前で引き返そうか、とも思ったけど、考え直してそのまま進んだ。おやじから何か話が聞けるかもしれん。
  オヤジは待ってましたとばかり「ワン・ダラー(=4000リエラ)」。歩行者の通行料としては高めだな、とは思ったが、言い値で払ってやった。話しかけてみたが、英語は全く通じない。おまけにオヤジは、私にあからさまに早く立ち去ってほしい、といった素振りをみせる。ここにいつまでも居られたら迷惑だ、とばかりそっぽを向く。仕方ないから、早々にゲートを通りすぎた。
  帰りもこの竹橋を通った。オヤジは再び「ワン・ダラー」。カネを渡したあと、あえてゲートから離れずに、次の通行人が来るのを待っていた。オヤジはあきらかにイヤな顔。間もなく若い2人の男が乗ったオートバイが来て、ゲート前で停まった。オヤジは、そわそわして、彼らになかなか料金を求めない。おれはオヤジの表情など知らんぷりしてゲートそばを離れない。根負けしたようにオヤジは若者たちに料金を告げた。
  「1人1000リエラ(=4分の1$)」
  バイクの若者は「えーっ」とのけぞった。明らかに、いつもより「高ーい」と不満たらたら。あるいはこれが正規料金なのかもしれない。ただいつも通る顔見知りには、通常は割引きしているのだろう。おれを前にして、オヤジもあまり安くはできなかったに違いない。
おれからは4倍の料金を取ったことがバレバレのオヤジ、バツの悪さをごまかすためか、急に口数が多くなった。
  「雨季には、頭の高さよりも上まで水が来る」
  「竹橋は水の下になり、水が引いたら毎回補修する(だからカネがかかる、と言いたいらしい)」
  水の跡が残る柱の汚れを示しながら、こちらが尋ねもしないのに、身振り手振りで、大慌て。
  こすい、こすっからい。でもバレバレのインチキ。どーもこのオヤジに腹を立てる気が起きなかった。
   

  戦争後の混乱がようやくおさまって、急速な経済発展を目指そうとしているカンボジア。急速な近代化が進んだ中国のあとを10年遅れで追いかけているのであろう。
  田舎に行くと、まず子ども達が寄ってくる。大人もちょっとはにかみながら「ハロー」。親しくなると「飯食っていきな」と誘ってくれる。実にひとっこいい。時には、なれなれしく感じるほど。その一方で、竹橋番人のように、けちなちょろまかしをするやつもいる。「マネー崇拝」と「素朴な人情」がぶつかり合い、共存している世界。近代化され、よそよそしい欧米や日本だってひと皮むけば結局はおんなじことなんだろうけど、カンボジアやベトナムは、その二つがむき出しの形で表れる。
  思うに、ベトナム、カンボジアの近代化の歩みは、中国よりも一段とスピードアップするだろう。マネーが独走する世界になるのか、それでも「素朴さ」を生かした社会が残るのか、これからの10年間を見たいもんである。
   

  ここまで書いて、TVのアフリカ縦断ツアー番組を見ていたら、砂漠で通りがかりのトラック運転手が、何も言わずにツアーの一行に飲み水を差し入れて立ち去る場面があった。ツアーリーダーによると、砂漠ではよくあること。朝起きると、テントの前に卵や飲み物が置いてあることがあるそうだ。日本なら、こんなことされたら、毒でも入ってるんじゃないかと、とても口にできない。
  見知らぬ旅人にまったくの無償の好意を見せる一方で、旅人を狙う盗賊団もいる。それがアフリカの現実。東南アジアとどこかダブるところがあるのではないだろうか。