ルーシー

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 エチオピア行の一番の目的は、化石人骨が古いものから新しいものまで数多く出土している、同国北部のアファール低地を見てくることだった。

 「ナショナル・ジオグラフィック」の2010年7月号に「人類の系譜」と題する記事が載った。この記事によると、現在のところ最も古い約16万年前のホモ・サピエンス、100万年前のホモ・エレクトス、300万年前のアウストラロピテクス、さらに440万年前のアルディピテクス・ラミダスが、この狭い一帯で見つかっている。

  アファール低地を流れるアワシュ川沿岸のヘルト村近郊で見つかったホモ・サピエンスには「イダルトゥ」という名前が付いている。アファール語で「長老」を意味する。現生人類(ホモ・サピエンス)がアフリカを出てユーラシアに渡ったのが6万年前ころ。とすると、この「イダルトゥさん」はそれよりはるか10万年も前に生きていた。つまりはアフリカ以外の全人類の遠~いご先祖さま。私の爺さんの爺さんの・・・途中で婆さんだって入ってるんだろうけど・・・そのまた爺さんの爺さま、ということになる。

 私の最初の目論見も、このヘルト村を訪ねることだった。 

 首都のアディス・アベバで旅行会社に相談したら3泊4日の日程が必要だという。運転手付きの「日本製very good car」にガイドと護衛を各1人伴い、宿泊・食事代は各自負担でおおよそ800$。「ガイドは社で契約している考古学者を雇う」

 こちとらには、示された800$が妥当な金額なのか見当もつかない。 

  その足で、アディス・アベバの国立博物館に出かけた。ここには「イダルトゥ」がいた。有名なアウストラロピテクスの「ルーシー」もいた。さらに日本の諏訪元教授が最初に見つけたアルディピテクス・ラミダスの「アルディ」もいた=http://www.um.u-tokyo.ac.jp/people/lab_suwa.html参照。いずれもレプリカだったけれど。

 博物館でヘルト村への行き方を相談した。「それならベルハネ博士に相談するのが一番だ」。案内された博士の部屋は鍵がかかっていた。あきらめて帰ろうとしたところに博士が現れた。

 あの~ナショナル・ジオグラフィックを読んで日本から来ました。ヘルト村に行きたいんですがあ・・・

 ベルハネ博士はイダルトゥ発見などアファール低地帯の発掘・研究に永らくたずさわってきた。広い自室にはこの付近の詳しい地図、発掘品などが並んでいた。

「3泊4日で800$?その金額なら悪くないね」。

 ふっかけた値段ではない、と保証してくれた。しかし、旅行会社が「考古学者」として名前を挙げたガイドのリストを見せると「どれも知らん名前だなぁ」と首を傾げた。 

 ヘルト村への道程はかなりの悪路らしい。悪路と言うより途中から道はまったくない。ランドクルーザーでなければ行くのは不可能。柔らかな砂地を時速20㌔以下で走る。途中に宿泊施設や食堂はないから、テントと炊事道具、食料を持参する必要がある。部族・氏族間の紛争も絶えず、危険を伴う。こいつはなかなか大変だ。 

 私にはもう一カ所行ってみたい場所があった。ルーシーの発掘されたハダール。ハダールに行くルートは、ヘルト村とはアワシュ川を挟んで対岸を通っている。

「途中に橋がない。一度に両方行くのは無理だ」

 ハダールはヘルトと違って、近くまで道路がある。比較的近いところにミレという町もあり、ホテルもあって宿泊できる。「アディスからミレまでの距離は、ヘルトに行くより遠い(約500㌔)けど、道路が整備されているから、乗用車なら2日で往復することができる。こちらなら護衛もいらない」

 それで決まりだった。よし、博士のアドバイスに従ってヘルトはあきらめ、ハダールにしよう。もちろん懐具合を考えてのことだ。

 「ルーシー」という名の、博物館のそばのレストランで昼飯を食ったあと、旅行会社に戻った。旅行会社で行き先の変更を告げ、値段の交渉をした。余裕を持って2泊3日、護衛なし、「not very good car」で、旅行会社が提示したのが600$。4日間が3日間になったのだから、まず日程で4分の1減。護衛と高級車の分が減額されていないじゃないか。

 粘ると、あっさり450$に値下げした。これで手を打つ。

 すぐにガイドと運転手が呼ばれた。ガイドはジョセフ、運転手はアブラハムと名乗った。アファール族出身のジョセフは31歳、考古学者というふれこみだったけど、すぐに化けの皮がはがれた。彼には博物館の展示物に付いている説明文ほどの知識もなかった。 

 1日目、翌朝まだ暗い6時に約束通りアブラハムがホテルに現れた。見ると、トヨタの12人?乗りマイクロバス。かなりのボロである。ま、しょーがないか。ジョセフを途中で拾って出発。

 初日の目的地アワシュには昼前に着き、夕刻からアワシュ国立公園を見学した。ハイエナが木陰から現れた。ジョセフが叫ぶ。「フォト!フォト!」。写真を撮るチャンスだというのだ。

 一昨年、タンザニアのセレンゲティ・ンゴロゴロ国立公園でライオンがバファローを食う場面など、たくさんの野生動物を見た。それに比べると、ハイエナ程度ではシャッターを押す気にならない。一頭の老ライオンが檻の中で!所在なげに寝ころんでいたのだけが、印象に残った。おいおい、ここはナショナルパークじゃなかったのか?それとも動物園? 

 2日目朝、ハダールに向けて出発。ジョセフの話によると、途中のアデイト村付近は海抜マイナス約100㍍なのだそうだ。2500㍍以上の高地にあるアディス・アベバから一気に3000㍍近く下がったわけで、気温はその分急激に上がった。真冬のアディスは長袖でも寒いくらいだったけれど、さすがにここは北緯10度以南の熱帯地方、車の窓を開け放していてもTシャツがべったり肌に張り付く。このトヨタはクーラーが利かなかった。

 周囲は半砂漠。乾季の今は、緑色を失った灌木が点々と黒い影を落としているだけで、石ころだらけの白っぽい大地がどこまでも広がっている。この一帯は、もともとアファール族のテリトリーだった。卵形のアファール族の住居が、ブッシュに隠れるように点在している。

 時々、山羊を追う彼らにすれ違う。ふと見ると、彼らが担いでいるのは銃だった。銃を両肩に渡して案山子、あるいは磔刑の罪人のように、両腕をその銃に伸ばし、アフリカ遊牧民独特のスタイルで歩く。タンザニア・ケニアのマサイもしばしば同じ格好を好む。マサイが担いでいたのは自然木のスティックだったけれど・・・。アファール低地一帯では、日常的に銃を持ち歩く男たちの姿が目についた。 

 道路は、アワシュ川に寄り添いながら、この半砂漠地帯をほとんどまっすぐに突き進む。アワシュ川は、ここらではまだ十分な流量を誇っている。川の流れを写真に収めた。橋のたもとから警察官が飛び出してきた。この国では橋は軍事的要衝、写真撮影が禁止なんだそうだ。

 ジョセフが警察官と交渉する。

 「写した写真を見せろとさ」

 あいよ。ここは素直に言いつけに従う。

 川を写した液晶画面のひと隅に橋の欄干が写っていた。それと、警官の後ろ姿をこっそり撮ったのにも橋の一部が写っていた。この2点は、その場で消去。あとは川面と両岸が写っているだけ。それでも現場の警官には、許容範囲か否かの判断がつかなかった。で、分署のあるアデイトにUターンして上司の判断を仰ぐハメに。

 ここでもカメラの液晶画面を眺めながら、数人の警官が「どーしたもんか」と首をひねる。結局、ここでもラチがあかず、本部のあるミレに警官共々走る。ミレでは私のパスポートを見せただけで、何のおとがめもナシ。消去も求められなかった。この騒動で2時間近くをロスした。午後3時を回っていた。 

 ミレから枝道に入った。それまでの広い舗装道路が、ひどい穴ぼこ田舎道に変わった。運転手のアブラハムは右に左にハンドルを切りながら極力穴ぼこを避ける。時速30㌔足らずののろのろ運転。それでも車はガタピシきしみ続ける。私は天井に頭を打ち付けないよう、椅子から転がり落ちないよう、前の座席にしがみついた。

 走ること2時間、道路沿いに数十軒の建物が並ぶ集落に着いた。エルウーハという村だった。アデイト発の乗り合いバスの終着点だった。

 ここで分かったことは、乗り合いバスを乗り継いで来れば、アディス・アベバからエルウーハまではたどり着ける、ということだった。何日間かかるかは知らないけれど。

 エルウーハから先は道がなかった。ジョセフはここで現地アファール族の道案内人を雇った。彼は「ルーシー」を発見した米国の人類学者ドナルド・ジョハンソンの発掘の手伝いをしたこともあった。

 アブラハムの苦闘がまた始まった。道案内人が前方をにらみながら、右に左にと進行方向を指示する。ブッシュを避け、固い地面を選び、涸れ川で車体の腹をこすり、あえぎあえぎ車は進む。乾季だから泥濘というのではないが、ふわふわの柔らかな土が吹きだまりのようになっている。間違ってそんな所に突っ込んだら、このおんぼろマイクロバスでは立ち往生する。柔らかな地面で後輪が空転するたびにヒヤヒヤした。 

   ジョセフが得意げにガイドを始めた。

 ルーシーは1974年にドクター・ジョハンソンが見つけた。320万年前のアウストラロピテクスの骨である。化石は今、アディス・アベバの博物館に展示されている・・・。

 ジョセフは時々自分の手のひらを盗み見る。手のひらにはボールペンでメモが書いてあった。エルウーハで案内人から聞き出し、急いで書き留めたものだろう。いやはや大した考古学者である。

 あとで分かったのだが、ジョセフはそれまで1度もハダールに来たことがなかった。ハダールどころかエルウーハも今回が初めて。ヘルト村など、どこにあるのかさえ明確でなかった。宿泊場所も食堂もないヘルトに行っていたら、どーなっていたろう。「いやはや」の3乗・・

 ただし、ジョセフには強みがある。アファール族の一員、という絶対的な切り札がある。アファール語がしゃべれる。ここらの住民は大半がアファール族、英語を話す人間はほとんどいない。それどころかエチオピア公用語のアマリ語でさえ解さないものがいる。ジョセフは、10年近いガイドの経験で積んだ、要領の良さと同族のよしみで「なんとかなる」と考えていたのだろう。少なくとも土地勘のない日本人などだますのは簡単だ。ヘルトの発掘地には何の標識もないようだから、「ここがそこだ」と言われれば、他の場所を見せられても否定のしようがない。それにしても寝るところ、食うところはどうするつもりだったんだろう。 

 エルウーハから27㌔、車で約1時間のところに、この荒涼とした半砂漠には不釣り合いなコンクリート製とプレハブの建物が数軒固まっていた。ここが目的地のハダール「市街」だった。車をとめると男達が集まってきた。アフロヘア、腰巻きスカート、目つきの鋭い、いずれも異様な姿。手に銃を抱えている者がいる。腰に短銃や山刀を差しているのもいる。まだ十代半ばと思われる少年までもが鉄砲を持っていた。

 車から下りた案内人はここで銃を1丁手に入れた。ジョセフは、さらにもう1人の男を護衛として雇った。男はヤクでもやっていそうな目つき、顔つき。銃を担いで車に乗り込んできた。護衛というけど、こいつらの方がなんだかあぶなっかしい!剣呑、剣呑・・。これは明らかに外見だけから人を判断した偏見以外のなにものでもない。でも、正直、少しびびっていた。

 午後6時を過ぎ、太陽はすでに地平線に落ちようとしていた。急いで発掘地点に向かう。かすかな地面の跡をたどって車を走らせること30分、丘を下り、急な上りにかかったところで、ついにわれらがマイクロバスは力尽きた。

 アブラハムを残して、案内人を先頭に、護衛とジョセフ、私の4人は歩いて目的地に向かう。15分ほど歩いたところで急な崖に出た。ルーシーが発掘されたのは、この崖を下り10分ほど歩いたところだという。もうすっかり日が落ちて、足元がおぼつかない。崖を下るのは無理だった。この暗さでは写真も撮れない。

 明日の朝もう1度出直そう。ミレに戻って宿を取る予定を急きょ変更して、ハダールに近いエルウーハに泊まることにする。

 ジョセフが、「明日中にアディス・アベバに戻るのは不可能。もう1日延長して欲しい」と要求した。1日延長代金は、運転手付き車レンタル料100$とは別にジョセフのガイド料が30$。それに現地雇いの案内人と護衛の2回目の支払い分がそれぞれ200ビル(1ビル=約5円、200ビル=千円)。

 本当に明日中に戻れないのか?ジョセフと言い合った。彼は無理だと言って譲らない。何せここは彼のテリトリー、鉄砲を持った悪相の仲間(ハダールの皆さんごめんなさい)がいっぱいいる。都会からはるか遠くに来ている。エチオピアでは邦人の誘拐事件も起きている。ここで彼に変な考えを起こされたらヤバイ。やむなく1日延長を決める。 

 エルウーハの宿はひどいものだった。むき出しのコンクリートの床と壁。床は土だらけで、宿の女が急いで掃き掃除をしたが、置いたリュックの背中が土ぼこりで汚れた。もちろんクーラーやファンなんぞない。あったって満足に電気も来ないから、役に立つはずもないのだけれど。入り口近くにぶら下がっていた薄暗い裸電球は、就寝とともに消え、二度と灯ることはなかった。

 6畳ほどの部屋には粗末なベッドが1つあるだけ。窓は木製のはね窓。開ければ蚊が入り放題。でも暑くて開けないではいられない。幸い蚊帳があった。穴だらけだったが。アディス・アベバから持って行った殺虫剤を、部屋の隅々まで盛大にまいて蚊帳を張った。

 晩飯はオムレツを挟んだホットケーキ(のようなもの)1枚。食うころには午後9時を回っていた。体はくたくた、汗と泥だらけ。ともかくシャワーを浴びたい。

 アブラハムが「シャワー」の準備をしてくれた。バケツ1杯の水だった。真っ暗なシャワー室で、懐中電灯を頼りに顔を洗う。頭から足先までぬらしたタオルでこする。水はたちまち真っ黒になった。 

 3日目朝、約束では6時に起きて食事をしたらすぐ出発するはずだった。定刻に起き出したら外は真っ暗。電灯もつかない。誰も起きてこない。ジョセフたちが起き出してきたのは7時過ぎだった。

 朝のトイレは悲惨だった。床にコンクリートの溝があり、直径10センチほどの穴が開いている。水があればここから地下に流すのだろうけど、そんな水はない。溝にはウンコがたんまり山となっていた。おまけに床にはウンチをふいた紙がたくさん散らばっていた。これなら野ぐその方がずっと快適だ。だけど、ここは一応市街地だから、そんな場所は近くにない。ウンチ紙から目をそむけ、引っ込みそうになる直腸を励まして、ようやく用を足す。

 これで1泊100ビル(約500円)とは高い!首都で泊まっていた宿と同じ料金。ジョセフによると「地元民は50ビル(約250円)だが、おぬしはガイジン価格で2倍だ」。多分、ジョセフの分までこちらにオンしたのだろう。 

 昨夕と同じコースを通ってハダールに向かう。案内人も同じ。ただしハダール市街で雇った護衛は前日とは別の若者だった。それと、若い男女2人も同行した。彼らはハダールに派遣されているNGOかなんかの職員らしかった。彼らもルーシー発掘地点を見たくてピクニック気分で私たちに参加したのだった。

 

 昨夜見た崖はざくざくとした砂地だった。急傾斜ではあるけれど、さほど危険はない。崖を下り、雨季に水が流れた川の跡をたどって20分ほど歩いた。涸れ川を外れて斜面を上ったら、コンクリートで固めた四角いモニュメントがあった。表面にはルーシーの発掘を記念して

「3.2million year-old skeleton of “Lucy”(Australopithecus Afarensis)was discovered by Johanson on 24 November, 1974」

と刻まれていた。

 周りの地面には、動物の骨や大小の化石の破片がたくさん散らばっていた。ラクダの大きな足の骨もあった。これは最近のものだろう。

 ほとんど樹木のない灰色の山並みが途絶えるはるか遠くに、かすかに緑のベルトが見える。それがアワシュ川の川筋だ。あの緑の向こう側にヘルト村があるはずだ。その緑のベルトも海までは届かない。水は流れるに従ってカラカラの大地に吸い込まれてしまう。

 案内人が灰色の山並みを指して「テレビで見たアフガニスタンみたいだね」と表現した。大地溝帯の末端にあたるこのアファール低地は、大地が裂けるのに伴って沈み込み、川が流れた。大地溝帯の中にはいくつもの火山がある。その火山から噴出し、何百何千万年間にもわたって堆積した火山灰層を、雨季になると流水が抉った。古い地層が表面に現れ、化石がむき出しになった。 

 アルディピテクス・ラミダスの「アルディ」がいた440年前、この一帯は森林地帯だった。今のような半砂漠でなかったことは化石などから明らかになっている。アルディは二足歩行する一方で、足の親指が他の4指と向かい合う猿と同じ構造になっている。木に上ったり、ぶら下がったりするのも得意だったと想像されている。

 「ヒトは森林から草原に出てきた後、直立歩行を始めた」と考えられてきた、これまでのシナリオがアルディ発見によって大きく書き換えられそうなのだ。ヒトは森林の中で誕生したのだろうか? 

 「愛しきルーシー」の発掘地周辺の写真を撮っていると、ジョセフが出発をせかし始めた。今夜はアワシュに戻って1日目のホテルに泊まりたい、という。アワシュからアディス・アベバまではさらに3時間くらい。アワシュまで戻るのなら、そのままアディスに帰ればいいものを。少し無理すれば直接アディスまで帰れないこともない。でも、それじゃ延長料金は発生しない。どーも、彼ははじめから今夜はアワシュ泊まりを決めていたものらしい。誰かと約束でもありそうだった。1泊延長ははじめから折り込み済みだったのだ。

 アファール族とはいいながら都会育ち、小太りで山歩きなどあまり似合わないジョセフだが、この時ばかりは先頭になって崖を上っていく。先へ先へと皆を急がせる。崖を登り切ったら頭から大汗を流していた。

 私としてはせっかく1日延長したのだから、本当はハダール周辺やエルウーハをもっとゆっくり見たかった。でも、一方で昨夜のような汚い宿に連泊するのは御免被りたい、という気持ちもあった。アワシュのホテルは真新しく清潔で実に快適だった。そう思うとジョセフに文句を言う気力がなくなった。 

    前日と同様、がたがた道路と土ぼこりに悩まされながらミレに出ると、あとは快適な舗装道路。飛ばしに飛ばして暗くなる前にアワシュのホテルに戻った。

 延長したため4日目も1日分の契約があったが、早々に追加料金を払って2人を開放した。ジョセフのいないところでアブラハムを呼んでチップを渡し、口止めした。2人はアディス・アベバへ戻り、私はひとりアワシュに残った。そこから紅海へ向けて路線バスを乗り継ぐつもりだった。

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