さすがにアンコールワット

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 明日、アンコールワットの町シムリアップを離れ、途中の国境に近いポイペットに立ち寄ったあとバンコクに向かう。
 元来が名所旧跡にはあんまり関心がない。たくさんの観光地に足跡を残すことに興味はない。「あっちも見た、こっちにも行った」的な訪問地コレクションの趣味もない。シムリアップに来たのは、バスがとまる適当な田舎都市がここだったから、という理由が大きい。もちろん行きがけの駄賃、と言ったら言い過ぎだが、世界に名高い遺跡をひと目くらい見てやろうという気はあった。
 
 大枚20$をはたいて入場チケットを買い、10$でバイクを1日雇って、遺跡に出かけた。
 さすがに素晴らしい。遺跡の修復は日本が援助したらしい。単に修復するのではなく、建造当時の構築方法や材質までも配慮したと看板に書いてあった。懇切丁寧な仕事ぶりであったことがうかがえる。
 寺院址のアンコールワットと都城址のアンコールトムとも、石造りの建造物に掘り込まれた、大小のレリーフ群が時代を経てますます美しくなった感じ。
 
 個人的には、ワットとトムからちょっと離れたところに位置する(周辺にはワット、トム以外に、中小の寺院址がいくつも残っている)、TaPromhが一番好きだ。トムやワットのように、きちんと修復整備されてはいない。いたるところ崩れ落ちた石材が山をなし、さながら廃寺の趣。その石材を樹齢幾百年の巨樹の根が抱きかかえ、飲み込むように生い茂り、石材と石材の隙間に、軟体動物の足のような根っこが入り込んでいる。石と樹木がすでに一体化していた。
 
 日本の観光地なら、危険を理由に観光客など絶対にシャットアウトするような場所まで、開放されている。石の階段は傾斜が50度を超す。他の遺跡では両手を使って這い上がらなければ、登れないところがあちこちにあった。ようよう這い上がっても、往きはよいよい還りは怖い、である。上から見下ろすと「どーやって降りようか」
 うしろ向きになって、やっぱり四つ足になって下るしかない。トムやワットには観光客用に木製階段が取り付けてあるが、他の中小遺跡にはそんなものはない。遺跡見物に加えて、ちょっとした岩登りの気分を味わえて、とても得した気分。
 
 得した気分といえば、このTaPromhでとてもいい被写体を見つけた。建造物の石の窓枠(もちろん窓ガラスなど入っているわけがない)に、ひとりの女性観光客が上がり込み、本を読んでいた。格好の良い長い脚を横窓枠にLの字型に投げ上げ、ザックを枕に仰向けになっていた。壁に下げた黄色い麦藁帽子も、いいアクセントだ。
 歩き疲れたのだろう、その姿勢のままうとうと始めた。日陰になっているから格好のお昼寝場所ではある。
 その図が実にビューティフル! 眠っていたのをさいわい、ロングとアップで遠慮なく撮ってしまった。ほころびた短パンに土ぼこりの付いたシャツの姿ながら、そのまま「絵」になっていた。時間を経て深い色合いになった石たちとあいまって、上質の古典絵画を見ているよう。これこそホントに得した気分。
 ま、美しい脚に目を奪われていたんだろう、と言われれば、ハイその通りで。

  

 その後、バンコクでガイド(日本人)から聞いた話では、TaPromhなどいくつかの遺跡は危険なので、観光客の立ち入りを制限することも検討されている。雨季に足を滑らせて階段から転げ落ち、怪我をした人もいたそうな。TaPromhはもっと時間をかけて、じっくり見てくればよかったなぁ・・・・

崩壊したカントー大橋は日本の恥さらし?

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 昨年、日本の資金と技術援助でメコン川に建設していた橋が、工事途中に崩落した。ベトナムのメコンデルタの中心地カントー市に都合5日間ほど滞在し、橋を見てきた。
 参加したメコンツアーのガイド曰く 「日本が造っていた橋が崩壊し、今はオーストラリアから技術者が来ている」
 欧米人客がほとんどのツアーで、オーストラリア人が多かったから、リップサービスのつもりだったのかもしれない。日本人が参加していることに、最初気がつかなかったみたい。ガイドの言うことだから、あんまり当てにはならんが、日本の恥を世界にさらしているようで気分がよろしくない。
 この崩壊ニュースは日本で知っていた。原因を追究したのは民放テレビ一局だけではなかったか?それによると日本側技術者の中に、今のやり方では危ない、と警告する報告書を出していた人がいたそうな。外務省も日本の技術が世界で不信を招きかねないと、ベトナム政府に原因の究明を求めたというニュースを、新聞の小さな記事で読んだ。
 たしかにお粗末な現場工事が最大の原因かもしれない。多分、元請の大成建設はそう考えているだろうことは想像に難くない。でも工事の全面的な責任を負ってこその元請の存在である。税金数千億円(今、手元に資料がないので工費、計画など詳細は書けないが)を投入して、日本の恥をさらした責任は大きい。
 昔から、日本のODA、あるいは円借款には、しばしば疑惑がついて回る。日本の資金援助で行われる事業を日本企業が受注し、そのカネの一部が政治家や右翼政商らに裏金として、あるいは政治資金として流れるという構図があった。あるいは現地の有力者に賄賂として贈られる。
 さらには元請、あるいは中間業者らが利益を掠め取り、事業そのものに使われるカネはやせ細っていく。そんな構図の中で起きた結果の事故だったということはないのだろうか?
 一党支配のベトナムで、本当の事故原因究明や自浄作用が働くのは、あんまり期待できないんじゃなかろうか。日本からの進出企業がベトナムの有力者や担当者を接待したり、プレゼントを贈ったりしている話を、当の日本側関係者から聞いたことがある。
 
 パラオでかつて韓国の援助で建設された、島と島を結ぶ橋が完成後に崩落した。その後、日本の援助で新しい橋が完成、このことは今も語り継がれている。
 
 昨年もカントー市に来たとき、この橋への期待と「TAISEI」の名前を、現地の人たちから何度か聞いた。
 今は中型フェリー2隻が両岸を始終行ったりきたりして人と車と貨物を運んでいるが、川を渡るまでに小1時間もかかる。サイゴンとメコンデルタを結ぶ交通のあい路になっていて、住民の橋に寄せる期待は大きかった。
 韓国や米国ならいざ知らず、日本の近代的な橋が、完成後あるいは建設途中に崩壊するなんて、国内では考えられん。現場に責任を押し付けるのは一番簡単だけど、大成建設も外務省も、もちっとしっかりしてくれんと。何人かの首が飛んでもおかしくない失態だと思うよ。
 

半ヒヨコゆで卵を食らう

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 プノンペンの繁華街オルッセー市場の近くに、1泊6$のゲストハウス(旅店)を見つけ、ここをねぐらに終日ふらふら徘徊している。
 朝起きると、近くにフォー?を食いに行く。ベトナムではフォーだったが、カンボジアで何と呼ぶかは知らない。紅茶と合わせても6000R(4000R=1$)程度。たっぷりと無料のお茶も飲んで帰ってきて、フロントに次の1泊料金を前払いする。
 ひと休みしたあと市場見物に出かける。これが何度見ても飽きない。数十羽のアヒルや鶏を生きたまま荷台にくくりつけて運んでくるオートバイがある。それを解体する業者がいる。男や女たちが、熱いお湯を沸かし、みるみるうちに羽を毟り取っていく。丸裸にされたブロイラーの山。そのそばでまだ生きている鳥たちが、神妙な顔つきでうずくまっている。仲間たちが裸にされている横で、特別騒ぎ立てることもない。よく見えないのだが、足元を紐か何かで縛られているようだ。
 すでに観念しているのか、黒い鶏は長い首をすっかり羽の中にうずめているが、アヒルは時々首をもたげて、好奇心にかられたように周囲を見渡す。あんまり悲しそうではない。
 この市場一帯は、午前中は文字通り、野菜、果物、肉魚、衣服、日常雑貨などの露天が並ぶが、昼前には次々と撤収し、代わって食い物屋が店開きの準備を始める。6時をすぎると、一帯はさながら巨大な屋外大衆食堂。俺はここで焼肉を食い、よく分からん肉や魚、野菜の入ったスープを飲み、ヒヨコになりかかった鶏の卵を茹でたのを食う。この半ヒヨコゆで卵をはじめて食ったのは、ベトナム側の国境の町、チャウドックでだった。街灯もない暗い夜店で、普通のゆで卵だろうと思って注文した。殻をむいたら、羽の模様があり、中から小さな軟骨のようなものが出てきた。食う前は少し不気味だったけど、食ったらゆで卵とさほど変わらない。案外平気だ。近藤紘一のベトナムからきた奥さんが、これに目がなかったことを思い出しながら食った。
 本当に人間ってえのは何でも食うものだ。辺見庸の「もの食う人々」の世界である。わが日本人だって、相当なもんだろうなぁ。あの切り刻んでも、まだぐにょぐにょ動き、吸盤で吸い付く、見るからにグロテスクな蛸なんぞを、好んで食するのだから。そーいや、こちらでは蛸を見たことがない。
 ってなつまらんことを思いながら、通りを眺めていると、5人乗りのオートバイが通り過ぎて行った。ベトナムでは4人乗りが最高。それも数回くらい目撃しただけで、写真に撮ることはできなかった。カンボジアでは4人乗りはまったく珍しくない。交差点に30分間もたたずんでいれば、5人乗りが数台は通り過ぎる。それも大人が5人である。昨日はついに6人乗りを見つけて、見事カメラにキャッチした。うち4人は子供だった。6人家族なのだろう。いささか感激、感動めいたものさえ感じた。
 

明日、プノンペンへ

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 11日にベトナム入り、明日朝サイゴンを発ち、陸と川を伝って3日がかりでカンボジアの首都プノンペンに行く。
 と書くと、ちょっとした冒険のように聞こえるが、なに、そういったツアーがあるだけの話。2泊3日、バス、船賃、ホテルに観光地めぐり、一部食事や入園料など全部コミで34$ナリ。欧米人のバックパッカーがほとんどで、日本人の参加はあまりないらしい。
 
 カンボジア入り後の予定はなし。 
 ボケ老人の東南アジア徘徊。といってもそれほど動き回る気はない。ただぼーっとまちを眺めている。いかにも痴呆症にふさわしい。

猜疑心

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 ベトナムはスリやかっぱらいが多い。日本人とみると親切げに近づいてきて、案内するふりをして金を脅し取る-そんな話があちこちにある。私もスリにン?十万円もやられた友人を知っている。
  サイゴンに着いて2日目、暑い日差しの中を歩きくたびれ、日本語の地図には「文化公園」と書いてある、市街地のCong vien Van Hoa TPのベンチに腰掛けて、買ったばかりのホーチミン市内地図を広げていた。そこに黒のズボンにくたびれた黒シャツの、本人もややくたびれた感じの中年男がふらりと寄ってきて、なんということなく、私のそばに立ち止まった。こちらに関心があるような、ないような・・・・。何か言いたげな表情だったから、退屈しのぎにこっちから「やぁ」と挨拶してやった。
  それがきっかけで男は、自分の仕事のこと(子どもたちに英語を教えている、と言って、鞄の中から教科書を取りだしてみせた)や年齢(50歳)、日本人の女性を知っていると、とりとめもなく話し、こちらにも「家族はいるのか」「何をしにベトナムに来た?」と、尋ねてくる。
  最初、小心そうな印象だったのに、そのうち勝手に私の隣に腰を落ち着け、だんだん態度が大きくなる。私がカメラの入った頭陀袋を開けると、横からのぞき込むようにする。さらにはずうずうしくも私の左手をとって腕時計を見た。本人も腕時計をしているから、時間の確認ではない。何か品定めをするようなそぶり。
  残念ながら私のバカちょんカメラも腕時計も、たいして高級な品ではない。それを確かめたからか、男はあからさまにぞんざいになった。
  男が腕時計を見たのを契機に、私は立ち上がった。「もう、行かなくちゃ」。彼に習ったばかりのベトナム語「Tam biet」(さよなら)と言って、なんだかしらけたような男の顔を横目にしながら、男を置き去りにした。
  男が何者だったのか、本当のところは分からない。単にぶしつけな男だっただけなのかもしれない。ただそれだけのことだったのに、植え込まれた先入観が猜疑心を生んだのかもしれない。

  小さな不信感は芽生えていた。路上マーケットで老婆からミカンを買った。私の亡母そっくりのサルのような顔。ベトナムの路上で果物を売る人たちは、私の先祖を思わせる老婆が多い。少数民族だろうか? 
 ミカンを試食してみたら、水気は少なめだったが、日本のものとよく似ていた。
「1キロ8千ドン」と確認して買ってやることにした。
  婆さんは、ビニール袋に勢いよくミカンを入れ、秤に載せる。
  私は8千ドンを出して婆さんに手渡す。婆さんはミカン袋をこちらに押しつけ、さらに2千ドンを要求する。「キロ8千ドンって言ったじゃないか」と言い返しても、何やらまくしたてて譲らない。当然、8千ドンはすでに彼女の財布の中。根負けしてあと2千ドン出してやった。
  袋を下げてみると重い。1キロではきかない。あの婆さん、きりがいいところで勝手に10千ドン分を寄こしたようだ。
  1人で食うには持てあます量だと思ったが、ホテルで食い始めてみると、半分は干せからびた代物だった。
  ベンタン市場では、土産によさそうな巾着袋が目に止まった。色合いも南方風で素朴なつくりも悪くない。この市場では珍しく、あまり押しつけがましくない、おとなしそうな中年女が商っていたのも気に入った。
  値段を尋ねると30千ドン。日本円なら240円くらいか。ふだん、こういったものに全く関心がないから、日本でどの程度の値段がするか見当もつかない。で、一応「高い」と言ってみた。女は「高くない」。商売っけがない分、まける気もない、もともとふっかけた値段ではないのかもしらん。でも言い値で買うのもしゃくだな、と躊躇していると、相手の方から25千ドンに下げてきた。たかだか40円程度を値切ったことに後ろめたさを感じながら、その値段で手を打ち、50千ドン札を手渡した。女は財布を出して釣り銭を数えた。20千ドン札はあるが、あと5千がないらしい。小銭は2千ドン1枚のみ。ちょっと考えて、ここは居直ることに決めたらしい。
「はい、22千ドン」と少ない釣り銭を返して寄こした。
「50千ドン渡したから、釣りは25千ドン。3千ドン足らない」
  下手な英語だが、女も俺の言いたいことは分かっていた。少し具合の悪そうな顔をしたものの、あとは分からんふり、知らんぷりを決め込んだ。
  な~る・・・これがベトナム流か。
  その帰り道、ミネラルウォーターを1本買った。1.5リットル瓶が並んだ棚に「5000」の表示が出ていた。1本取って10千ドン札を出す。店のおばさんは千ドン札2枚の釣りを寄こした。これじゃ3千不足だ。またか・・・。さきほどのこともあって、いささか気分が悪い。今度は黙って引き下がるまい、と身構えた。ボトルを返して10千ドンを取り返してやろう。
  私が抗議すると、おばさん、なんだか困ったような、変な顔をしている。ちゃんと釣りはやったじゃないか、といった表情だ。
  私は釣り銭の2千ドンを見せ、ミネラルウォーターの「5000」の値段を指して、足し算をしてみせた。
  おばさんは合点した。おばさんは、異なる銘柄のボトルと交換し、釣りの2千ドンを5千ドンに換えてくれた。私が最初に手にしていたのは、輸入ものの水だったらしい。同じミネラルウォーターでも国産の「tsunami(津波)」と輸入物では価格差がある。私は自分が勘違いして力んだことが、後ろめたかった。

  前回、サイゴン商人は評判がよろしくない、と書いた。それを民族性と結びつけて論じるむきがある。圧倒的な物量のアメリカを相手に長い期間戦い抜き撃退した『したたかさ』の表れだ、と。
  一方で、サイゴンは、「北」に敗れた「南」といった側面も持っている。自然環境が厳しく物資の乏しい、勝利者の「北」の人間が『したたか』というのなら、なんとなく納得できるのだが・・・よく分からない。
  歴史的には、隣の中国やカンボジアと紛争を繰り返してきたから、それに対応する知恵というか、身の処し方のようなものは、伝統的に受け継いでいるのかもしれない。それが民族性なのかもしれないが、それとあこぎな商売とがどう結びつくのか?
  もともと「農耕民族はこうだ」「狩猟民族はああだ」といった、もっともらしくも根拠のはっきりしない床屋談義は信用していないけれど、民族性とサイゴン商法を結びつけるのは無理がある。日本だって戦後の混乱期はあこぎな商売で財をなした人間は多かったのだし(その先祖のあこぎな稼ぎを、今も子孫が受け継いでいる例はいっぱいある)、日本人も『したたか』といえば『したたか』、そうでないと言えばそうでもない。
  喧噪で騒々しいサイゴン。その活気が猥雑な雰囲気を醸し出していて、それはそれでまた旅人には興味が尽きない。

  そのサイゴンから離れ、南方のCantho市に2泊した。ここはデルタ経済の中心地。ちょうど旧正月テトの直前だったこともあり、里帰りした人たちでにぎわっていたが、しつこいバイクタクシーの呼び込みもなく、なんとなく落ち着いている。あまり英語は通じなかったけれど(これはこちらにも責任がある)、レストランのウエイターたちは根気よく注文に耳を傾けてくれたし、値段を騙る物売りにも行き会わなかった。
  この街は、大規模な水上マーケットで有名だ。何十、何百艘の大小の船がメコンの支流に並び、農産物を売買する。その間を観光客を乗せた磯舟が走る。それを見付けた子どもたちが岸辺に走り寄り、笑顔で手を振る。観光客がそれに応えて手を振ると、川で洗濯していた、おやじやおっかあも、ちょっと戸惑いながら恥ずかしげに手を振り返す。まだ、観光ズレしていない。
  木造の質素な一般住居に交じって、ところどころにアンバランスな鉄骨コンクリートの立派な建物が建っている。住宅だったり、会社事務所だったりする。商売の成功者なのだろう。ベトナムの経済は、10年以内に大きく変貌する。その活気が地方にも及んでいる。
  ひと抱えほどの花や果物を小船に載せて水上市場に運ぶ女性たちの姿は、格好の被写体だ。すばらしく「絵になる」。果たして10年後にこの光景が見られるだろうか-。もうしばらくベトナムをウォッチしてみたい。

怪しいマスク人間

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サイゴンの街を行くと、よくマスクをした人を見かける。はじめは鳥インフルエンザが日本や東南アジアの国々で話題になっていたから、そのせいか、と思ったけれど、そうではなかった。                                                             マスクをしているのは、歩行者にも見かけるが、バイクに乗っている人に断然多い。このバイクの洪水である。沿道は排気ガスに満ちている。マスクでもしなくちゃやりきれん。                                                             ちょうど路上でマスクを束にして売っているおばさんがいた。なかなかカラフルである。女の子用のかわいいのやら、ちょっと地味加減のやら。いたずら半分で1つ買ってみた。5千ドン。これを付けて街を歩いてみると、ただでも暑いのに、こんなもので鼻と口をふさいでは、息苦しくてかなわん。1度で懲りた。                                                             親しくなった現地の人と話をしていて、このマスクについて聞いてみた。                                                             「あれはね、日焼け防止のためのマスク。白い肌に憧れる人が多いから」                                                             このサイゴンあたりの太陽光線は、確かに北海道よりはかなり強烈だ。乙女心は分からなくもないけど、若い男も結構このマスクを着用している。そういや、日本でも化粧する男が増えているそうな。
 
 

隣部屋の演技派

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 私が最初に投宿したホテルは、ベンタン市場に近いLeThanhTon通りに面していた。ホテルの名前は忘れたが、安売りツアーだから2流どころ。フロントで確かめてみたらふつうは1泊25$だった。1人で泊まるには広すぎる部屋とダブルベッド、調度品はまあまあだったが、防音はあまりよくない。
 次に泊まったホテルはPhamNguLao通りとBuiVien通りに挟まれた小路の中にあった。その小路には欧米人を中心に、バックパッカーなんかが多く集まってくる。付近で料金を尋ねると、1泊12~15$が相場。レンタルームならエアコン付き10$、ファン付きなら8$。私は12$のホテルに南部デルタツアーを挟んで、前後5泊した。
 前半はthird floor。フランス植民地時代の名残だろう。階の数え方が、フランス流(英国も同じだが)。3rd floorは日本で言えば4階。後半は5階の部屋だった。しかもフロントのある1階がすでに倉庫の上だから、4th floorなら実質6階に位置する。エレベーターがないから地面の高さから部屋まで歩きである。食事など出入りの度に、さすがに息が切れた。フー、トシを感じる・・・
 非常口もない。下から火が出たらお陀仏である。窓から飛び降りるには高すぎる。
 このホテルは、前のにもまして防音が悪かった。特にバスルームのドアを開けっ放しにしておくと、隣の話し声でもなんでもかんでも筒抜け。
 隣室との間に両方のバスルームが並んでいた。その2つのバスルームの壁に穴まで開いている。これじゃ、聞こえない方がおかしい。
 この日のお隣さんは、アメリカ人か? 二日酔いなのか、朝遅く起きてきて、バスルームに入った。だみ声で何か歌い出した。はじめはなんだかメロディーの定まらない、景気の悪い声だったのに、だんだん調子が出てきたようで、次第に大声になり、最後は行進曲ふうに勇ましい歌声になった。だんだん昨夜のアルコールの酔いが戻ってきたのだろう。バスルームの中で体全体をゆすっているだろうことが、ありありと想像できる。
 そのうち、歌が何かセリフのようなものに変わる。
「×○♀▽■!」「○★♂▽×?」・・・疑問、断定、自問自答・・・ ひとり芝居である。なかなかの演技派。
 そういや、自分もトイレで1人になると(2人で入ることはないか)、気がついたらなにやら独り言をブツブツやってることがあるよな~。特に二日酔いのときは。
 長らく1人旅を続けていると、独り言、独り演技がうまくなるのかもしれない。バックパッカーの中には自分の国を出て、何年も放浪しているのがいるというから。この小路の路上には、近くのレストランのテーブルが並び、欧米人の旅行者やヒッピーみたいのがいつもたむろしていた。一杯の飲み物を手に、いつまでも話し込んでいる。言葉の通じる者同士の同じ顔ぶれ。その輪に入らない者が自分の虚ろな気分を表すとしたら、独り言くらいしかないだろうなぁ

ものごとは交渉次第

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旅行前、ベトナムの商人はしたたかだ、と聞いていた。あのベトナム戦争を辛抱強く戦い抜いた民族性なんかと関連付けられて、そう評されることもあった。どちらかというと良い意味ではなく、こすっかいらい、値段をふっかける、といった芳しくないイメージで語られる。                                                               ベトナムだけでなく、物の値段が交渉次第で決まる国は、結構多いのではないか。                                                               土産物屋で土産用に箸箱を求めた。値段は70千ドンだという。買い物をするときは値切るのが当たり前と教わっていたから、一応「高い」と言ってみた。店員は「それならいくらならいい?」と、逆に聞き返してきた。                                                               こう聞かれても、まったく見当がつかない。で、ともかく60千ドンくらいを言ってみようか? それじゃ、値切りすぎだろうか?                                                               迷った末、ともかく最初だからと「50千ドン」。自分では思い切って値切ってみたつもりだった。                                                               この店員、あっさりと「じゃ、中間をとって60千ドン」                                                               「しまった」。これなら、もっと低い値段を言っておくのだったか。                                                               万事がこんな調子。                                                               普段、物の値段の見当をつけるときは、10千ドンなら千を取り除き、0を1つ加えて100円と考えていた。実際は80円くらい。物価は日本の5分の1以下。                                                               ♪                                                                サイゴンの空港に降り立ったら、すぐに両替所のおねえさんから声を掛けられた。空港の両替レートは不利だと聞いていたが、とりあえず必要な20$だけ両替した。300千ドンだった。フォー一杯の値段が15千ドン~20千ドンのこの国では、300千ドンもあれば、3日間は過ごせる。その後もあちこちで20$ずつ両替した。銀行は316千ドン。一番レートのよい街の両替屋が320千ドン、1$が16千ドンだった。                                                               サイゴン市内には両替屋があちこちにある。旅行代理店や貸部屋斡旋などを兼ねたところも多い。ある夜、急にドンが必要になって、看板に「money exchange」と出ていた、旅行代理店に立ち寄った。カウンターにいたのはメガネを掛けた、ちょっとやせ形、神経質でコワソーなお姉さん。メガネの奥からこちらをにらみながら、なんだか迷惑そうに「パスポートは?」。そんなものホテルに取り上げられていた。どだい、かっぱらいが多いから、外出時に大金・パスポートは持って歩くな、と旅行案内に書いてあるではないか。                                                               「ない」と言うと、お姉さん、あっさり納得して、電卓をたたき、「20$314千ドンだが、これでいいか?」                                                               昼間の両替屋よりは少し低いレートだが、まあよかろう。                                                               私が「それでいい。ありがと」と言うと、お姉さん、さきほどまでのきつい表情を緩めて「サンキュー」。みかけほど意地悪ではなさそう。                                                               その2日後、また同じカウンターを訪れてみた。いたのは前とは違う太った明るい感じのお姉さん。実に気さくで、親切に両替に応じてくれた。提示されたレートは「300千ドン」。あれれ、2日前とやけに差があるじゃないか。                                                               それじゃいやだ、やめた、と言って店を出かかると、お姉さんは慌てて新たなレートを提示してきた。「310千ドン」。ま、夜間だし、他を当たるのも面倒だ、これでいいか。                                                               正直なところ、日本円に換算して100円や200円、どーでもいいや、とつい思ってしまう。                                                               この両替で店側には(あるいはお姉さん個人に?)10千ドン程度の利益があるのだろうか。デブ姉さんは「ありがとうございました」と、ていねいに、かつ本当に心をこめて言ってくれた。                                                               レートが銀行やホテルで異なるのはどの国でも普通のことだが、相手との交渉で決めたのは初めての経験だった。                                                               ♪                                                                地元の人たちも、買い物の度にこんなめんどくさい値切り交渉をやっているのだろうか。よく分からない。われわれ旅行者に対する別価格というものがあるのかもしれない。                                                               サイゴン市内には、観光客も多い有名なBenThanhマーケットのほかに、ふつうの人々が利用する路上マーケットが、毎朝、街のあちこちにできる。                                                               BenThanhマーケットから数百㍍離れたDeTham通りと、これに直交するCoGiang通りは、出店・屋台が午前中びっしり軒を連ねる。日本の祭りの夜店街が毎日店開きしているようなものである。魚屋、肉屋、八百屋、履物屋、日用雑貨屋、花屋・・・・実に何でもある。                                                               中には、よく分からない野菜ひと籠分ほどを路上に並べて、自分も地面にぺったんことお尻を落とし、道行く人を所在なげに眺めているばあさんがいる。かと思うと、水道などに使うエンビ管の曲がりだけをテーブルいっぱいに並べて売る男もいる。こんなものが、どれほどのもうけになるものやら。この路上マーケットには3回通ったが、このばあさんと男の「店」では、ついぞ売れているところを見なかった。客が立ち止まる場面さえなかった。                                                               この路上マーケットでサンダルを買おうとした。初日、「いくら」と聞くと、こちらが外国人のためか、ちょっと考えるふうで、「21千ドン」。2日後に行くと「25千ドン」と値上がりした。値段が一定でない。どーも怪しい。で、そこでは買わずに、スーパーマーケットに行ってみた。同じようなサンダルに40千~50千ドンの値札が付いていた。路上マーケットがそろってあこぎな商売をしている、というわけではなさそうだ。                                                               結局25千ドンのサンダルを買い求めたが、それでも、ホアングさんの従妹に言わせると「高い」                                                               適正な値段を尋ねたが、どーもはっきりしない。従妹は「4~5千ドンくらい」、姪のハンさんは「100円(13.3千ドン)くらい」                                                               ♪                                                                あきらかに日本人観光客向け値段は、各種ツアー料金だ。例えば「メコンデルタ1泊2日コース」は、日本人向け219$に対し、一般の観光客向け(欧米人が大半)は19$。「クチ地下トンネル見学コース」は日本人向け29$に対し一般向けがたしか5$だった。食事などの内容が異なり、ガイドが英語と日本語の違いがあるので、単純には比較できないが、あまりにも違いすぎる。                                                               私は24$の「メコンデルタ2泊3日」と5$の「地下トンネル」に申し込んだ。集団で移動するツアーはあまり好きでないが、2泊で24$なら、その時泊まっていた安ホテルの2泊分と同じ。なら、ちょいと足を伸ばしてみようと思い立った。案の定、日本人の参加者は私以外だれもいなかった。                                                               空港に出迎えてくれた、日本人向けツアーを扱う代理店のガイドは「ベトナムでは日本人が犯罪の被害に遭っています。この間も親しくなった現地の人間にガイドをしてもらった日本人が、知らない土地に連れて行かれ、2000$も脅し取られた。犯人は捕まっていない」とコワーい話をしてくれた。                                                               そりゃあ、確かにそんなこともあるでしょう。でもね、である。「だからツアーのご用命は信用あるわが社に」と言われても、この価格差を知ってしまったあとでは、そのまま受け止めるわけにはいかない。「ベトナムは怖い」とする宣伝は、日本の旅行会社とそれとつるんだ日本人向け現地代理店とのタッグマッチじゃないのかねぇ。                                                               「金持ちニッポンジン」は、この国でも定着している。「アメリカ人もベトナムにいっぱい来るけど、あんまりカネ持ってないね」というのが、ベトナム人の一般的な受け止め方のようだ。                                                               ♪                                                                夜、1人で街をぶらついていると、バイクの男がそばに寄ってきて、こちらの速度に合わせながら、下手な日本語で話しかけてくる。                                                               「オンナ、好きか?」(嫌いなわけないだろ)                                                               「オッパイ大きい。イイ子いる」(胸が大きければイイってえもんじゃなかろう=私は大和撫子の味方です!)                                                               ポン引き男の知っている日本語はどうやらここまで。例によってバイクを歩道にまで乗り上げ、いつまでもついてくる。どうやらここでも、ニッポン男児の性癖は広く認知されているところらしい。                                                               「バイクに乗れ」(しつこいんだよコラ)                                                               ♪                                                                この10泊11日のベトナム旅行では、日本の旅行代理店に支払ったのが、往復飛行機代とサイゴン3泊のホテル代、それに燃料高騰による追加料金なんかもひっくるめて77000円。4日目から安ホテルに移動し、そのホテル代や食事代、ツアー参加費、交通費、それとささやかな土産物代など、現地での出費は200$に満たなかった。同じ金額が、帰りに立ち寄った東京では2日間と、もたなかった。

ボートピープルにおごられる

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南部メコンデルタのツアーで、元ボートピープルと親しくなった。                                                                ホアングさん、65歳。                                                                カップルの多い欧米人ばかりのツアーバスの中で、空いていた私の隣の席に、途中から乗り込んできた。明らかに私たち日本人と同じモンゴロイドの顔立ち。あごや首あたりに、すり残しの長く白いひげが何本か伸びている。                                                                袖すり合うもナントカの縁、こんな時の決まり文句で声をかけた。                                                                「Where are you from?」                                                                彼も英語で                                                                「フランスから来た」                                                                私にとっては予期しない答えだった。――そうだ、フランスにもアジア系の人間が住んでるよなぁ。                                                                私の怪訝な表情を見てとって彼は続けた。                                                                「でも私はベトナム人だ」                                                                私のつたない英語と、彼の学校卒業以来40数年ぶりの英語のレベルが、ちょうど似かよっていた。                                                                21年前、ベトナムが経済的に行き詰まった際、彼も他の人々と共に故国を脱出し、ボートピープルになった。最初にたどり着いたのがマレーシア、9ヶ月だか10ヶ月間をそこで過ごした後、フランスに渡った。                                                                フランスでは空調設備関係の仕事をしていた。パリ市街地から約100キロの郊外に住み、早朝に家を出て何度もバス、地下鉄を乗り換え、片道3時間かけて仕事場に通った。郊外のバスの本数が少なく、乗り継ぎの駅では乗り遅れまいと猛ダッシュを繰り返した。昼食時間の1時間を挟んで9時間の勤務、帰りは夜遅くなった。                                                                「Your hard life?」と聞くと                                                                「Yes, yes, real hard life」と力を込めた。                                                                そんな厳しい生活の中で結婚する機会もないままこの年齢になり、独身を通した。今は、毎年3ヶ月間は故国に里帰りし、残る9ヶ月間はフランスで暮らす。                                                                すでにリタイア生活だが、いくばくかの収入はあるらしい。ユーロとベトナム・ドンの為替レートからすると、ベトナムの3ヶ月間は優雅に暮らせるということのようだ。                                                                ベトナムには兄弟や従兄弟もいる。このツアーには、フエの従妹とサイゴンの姪2人の4人連れで参加していた。ホアングさんは若いころ、南部デルタ地帯にも住んだことがあり、一種の里帰りツアーだった。                                                                「Do you love Vietnam?」と尋ねると                                                                もちろん、と即座に答え                                                                「Vietnam is my home country」                                                                ♪                                                                 バスの中で彼からベトナム語を教わった。長年フランス語で生活しているが、若いころ慣れ親しんだベトナム語の方がやっぱりずっと得意だという。                                                                「こんにちは」は相手が男なら「Chao Anh」、相手が若い女なら「Chao Co」、いいかげんトシをくった女なら「Chao Ba」。                                                                ガイドの英語が聞き取れず、いつもうろうろしている私のことが心配になったのか、旅行中しきりに気づかってくれる。姪のハンさんは6年ほど前、半年間ほど大阪近辺で暮らしたことがあり、思い出し思い出しではあったが、片言の日本語がしゃべれた。ベトナム11日間で、出迎えガイドと帰りのホーチミン空港で知り合った日本人を除けば、日本語で会話したのはこのハンさんひとりだけだった。                                                                翌朝、私が1階のロビー兼レストランに下りていくと、4人が先に席を取っていた。待ち構えていたように「ここに座りなさい」と椅子を1つ足してくれた。                                                                従妹の女性がバナナを取り出し、私にも分けてくれた上に、私が飲んだお茶代まで、まとめて支払ってくれた。                                                                昼飯のときも、ホアングさんが甘い蜂蜜入りの紅茶をおごってくれた。私が釣りに行くとき、よく持っていく好物である。そして                                                                「サイゴンに戻ったら、ここに電話して。市内を案内してあげる」                                                                と電話番号をメモして寄こした。                                                                旅の途中の私には何もお返しする物がない。こんな親切を予想していなかったから、お土産は何も用意していなかった。思いついたのが、何かの役に立つと思って持ってきた、手提げ袋。柄模様の布製で、底の部分が革で出来ている。革の部分が二つ折りになり、布部分を小さく折り畳むと一見財布のように見える。室蘭に勤務していた6、7年前、港の文学館を支援するチャリティー展で買い求めた手作り作品だ。                                                                「Its handmaid used bag」                                                                と断って従妹の女性にプレゼントした。使い古しだけど、結構気に入ってくれた様子。今ごろ、買い物なんかに使われているのかもしれない。バッグにとっては思いもかけない数奇な運命。強い日差しのベトナムの方が、あのハデなバッグにはお似合いかもしれない。                                                                ホアングさん一行からひと足遅れてサイゴンに戻った夜、約束通り電話した。ハンさんが出た。私の英語力の不安を見透かして、電話口で待ち受けていてくれたようだ。「ナワさんですか? ハンです」                                                                すぐに代わってホアングさんが電話口に出た。                                                                「これからホテルに迎えに行く。市内を案内するから20分間待て」                                                                時間前に現れたホアングさん、聞くとバイクで来たという。てっきりバイクタクシーに乗って来たのだろうと思って一緒にホテルを出たら、そこにバイクがとめてあった。ホアングさん自身が運転してきたのだった。                                                                後ろに乗せてもらって夜のサイゴンをひと巡り。ライトアップされた教会、郵便局、行政府の建物(今は人民委員会)など、フランス支配時代の古い建築物が美しい。サイゴンの人たちの自慢の建物のようである。                                                                でも、正直にいうと、私にとってこの夜のドライブは「コワカッタよ~」。座席にしがみついてびくびくしていた。ホアングさんはいいお歳である。フランスでもバイクに乗っているのだろうか? もし乗っていたとしても、このサイゴンで乗るのは至難じゃなかろうーか。                                                                ホアングさんはこちらの不安など知らぬげで、ちゃんと、歩道走や逆走に近いUターンをこなし、交差点では横から来るバイクを制し、最後に市場近くの食堂へ。この食堂は会議室で使うような長机と丸椅子の、大衆食堂然としていたが、かつて前米国大統領のクリントンさんが食べに来たことがある。その写真が店の入り口に誇らしげに飾られていた。まさか、ベトナム政府がクリントンをこの店に招いたのではないだろう。大統領を辞めた後に個人的に訪れたものではあるまいか?                                                                味が評判の店らしく、ベトナム人はもとより、現地の人に伴われた旅行者、あるいは長逗留とおぼしき欧米人の姿も多かった。                                                                今日の支払いは任せてほしい、と言う私に対してホアングさんは、ちょっと怒った口調で                                                                「ベトナムではアナタはお客。ボスはワタシだ。この国ではお客はボスの言うことに従うのが習慣だ」と言って譲らない。20千ドンの牛肉入りフォーとベトナム・ビールがことさらうまかった。                                                                昨年のパラオでも、あちこちで現地の人にご馳走になった。どーも、私は見知らぬ人がおごりたくなる顔でもしているらしい、トカナントカ都合のいいことを思いながら、ありがたくご馳走になる。それにしても、元ボートピープルのホアングさん、フランスではそれほどの資産家とは思えない。裕福な生活ではないだろう。その彼におごってもらっていいものだろうか。                                                                ♪                                                                 ベトナム最後の夜、夕食から戻ると、ホテルの受付係が「先ほどアナタのお友達が来て、これを預けて行きました」と、封筒を差し出した。その中には写真が2枚、Canthoの水上市場見物をする私の姿が映っていた。                                                                ホアングさんが、私の帰国に間に合うようにと、急いで焼き増ししてくれた写真だった。

ベトナムは果物が豊富③

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Mang cuc マン コッ                                                               外観は濃い赤茶色。ミカンくらいの大きさ。二つに切ると白い半透明の中身。スプーンですくって食うとうまいが、食うところはほんのちょっぴり。                                                               Vu sue ヴ ソー                                                               一見青リンゴを思わせる外観。二つに切って柔らかい果肉をスプーンですくって食う。乳汁のような果汁があふれる。ミルク味?                                                               CHOM CHOM チャム チャム                                                               味はライチそのもの。外観がちょっと異なり、表面に毛がはえていて、皮も厚い。ナイフでちょっと刻みを入れると簡単にむける。中はライチをやや細長くしただけで、そっくり。大きな種もそっくり。
 
 
 
 
 

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