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猜疑心
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ベトナムはスリやかっぱらいが多い。日本人とみると親切げに近づいてきて、案内するふりをして金を脅し取る-そんな話があちこちにある。私もスリにン?十万円もやられた友人を知っている。
サイゴンに着いて2日目、暑い日差しの中を歩きくたびれ、日本語の地図には「文化公園」と書いてある、市街地のCong vien Van Hoa TPのベンチに腰掛けて、買ったばかりのホーチミン市内地図を広げていた。そこに黒のズボンにくたびれた黒シャツの、本人もややくたびれた感じの中年男がふらりと寄ってきて、なんということなく、私のそばに立ち止まった。こちらに関心があるような、ないような・・・・。何か言いたげな表情だったから、退屈しのぎにこっちから「やぁ」と挨拶してやった。
それがきっかけで男は、自分の仕事のこと(子どもたちに英語を教えている、と言って、鞄の中から教科書を取りだしてみせた)や年齢(50歳)、日本人の女性を知っていると、とりとめもなく話し、こちらにも「家族はいるのか」「何をしにベトナムに来た?」と、尋ねてくる。
最初、小心そうな印象だったのに、そのうち勝手に私の隣に腰を落ち着け、だんだん態度が大きくなる。私がカメラの入った頭陀袋を開けると、横からのぞき込むようにする。さらにはずうずうしくも私の左手をとって腕時計を見た。本人も腕時計をしているから、時間の確認ではない。何か品定めをするようなそぶり。
残念ながら私のバカちょんカメラも腕時計も、たいして高級な品ではない。それを確かめたからか、男はあからさまにぞんざいになった。
男が腕時計を見たのを契機に、私は立ち上がった。「もう、行かなくちゃ」。彼に習ったばかりのベトナム語「Tam biet」(さよなら)と言って、なんだかしらけたような男の顔を横目にしながら、男を置き去りにした。
男が何者だったのか、本当のところは分からない。単にぶしつけな男だっただけなのかもしれない。ただそれだけのことだったのに、植え込まれた先入観が猜疑心を生んだのかもしれない。
小さな不信感は芽生えていた。路上マーケットで老婆からミカンを買った。私の亡母そっくりのサルのような顔。ベトナムの路上で果物を売る人たちは、私の先祖を思わせる老婆が多い。少数民族だろうか?
ミカンを試食してみたら、水気は少なめだったが、日本のものとよく似ていた。
「1キロ8千ドン」と確認して買ってやることにした。
婆さんは、ビニール袋に勢いよくミカンを入れ、秤に載せる。
私は8千ドンを出して婆さんに手渡す。婆さんはミカン袋をこちらに押しつけ、さらに2千ドンを要求する。「キロ8千ドンって言ったじゃないか」と言い返しても、何やらまくしたてて譲らない。当然、8千ドンはすでに彼女の財布の中。根負けしてあと2千ドン出してやった。
袋を下げてみると重い。1キロではきかない。あの婆さん、きりがいいところで勝手に10千ドン分を寄こしたようだ。
1人で食うには持てあます量だと思ったが、ホテルで食い始めてみると、半分は干せからびた代物だった。
ベンタン市場では、土産によさそうな巾着袋が目に止まった。色合いも南方風で素朴なつくりも悪くない。この市場では珍しく、あまり押しつけがましくない、おとなしそうな中年女が商っていたのも気に入った。
値段を尋ねると30千ドン。日本円なら240円くらいか。ふだん、こういったものに全く関心がないから、日本でどの程度の値段がするか見当もつかない。で、一応「高い」と言ってみた。女は「高くない」。商売っけがない分、まける気もない、もともとふっかけた値段ではないのかもしらん。でも言い値で買うのもしゃくだな、と躊躇していると、相手の方から25千ドンに下げてきた。たかだか40円程度を値切ったことに後ろめたさを感じながら、その値段で手を打ち、50千ドン札を手渡した。女は財布を出して釣り銭を数えた。20千ドン札はあるが、あと5千がないらしい。小銭は2千ドン1枚のみ。ちょっと考えて、ここは居直ることに決めたらしい。
「はい、22千ドン」と少ない釣り銭を返して寄こした。
「50千ドン渡したから、釣りは25千ドン。3千ドン足らない」
下手な英語だが、女も俺の言いたいことは分かっていた。少し具合の悪そうな顔をしたものの、あとは分からんふり、知らんぷりを決め込んだ。
な~る・・・これがベトナム流か。
その帰り道、ミネラルウォーターを1本買った。1.5リットル瓶が並んだ棚に「5000」の表示が出ていた。1本取って10千ドン札を出す。店のおばさんは千ドン札2枚の釣りを寄こした。これじゃ3千不足だ。またか・・・。さきほどのこともあって、いささか気分が悪い。今度は黙って引き下がるまい、と身構えた。ボトルを返して10千ドンを取り返してやろう。
私が抗議すると、おばさん、なんだか困ったような、変な顔をしている。ちゃんと釣りはやったじゃないか、といった表情だ。
私は釣り銭の2千ドンを見せ、ミネラルウォーターの「5000」の値段を指して、足し算をしてみせた。
おばさんは合点した。おばさんは、異なる銘柄のボトルと交換し、釣りの2千ドンを5千ドンに換えてくれた。私が最初に手にしていたのは、輸入ものの水だったらしい。同じミネラルウォーターでも国産の「tsunami(津波)」と輸入物では価格差がある。私は自分が勘違いして力んだことが、後ろめたかった。
前回、サイゴン商人は評判がよろしくない、と書いた。それを民族性と結びつけて論じるむきがある。圧倒的な物量のアメリカを相手に長い期間戦い抜き撃退した『したたかさ』の表れだ、と。
一方で、サイゴンは、「北」に敗れた「南」といった側面も持っている。自然環境が厳しく物資の乏しい、勝利者の「北」の人間が『したたか』というのなら、なんとなく納得できるのだが・・・よく分からない。
歴史的には、隣の中国やカンボジアと紛争を繰り返してきたから、それに対応する知恵というか、身の処し方のようなものは、伝統的に受け継いでいるのかもしれない。それが民族性なのかもしれないが、それとあこぎな商売とがどう結びつくのか?
もともと「農耕民族はこうだ」「狩猟民族はああだ」といった、もっともらしくも根拠のはっきりしない床屋談義は信用していないけれど、民族性とサイゴン商法を結びつけるのは無理がある。日本だって戦後の混乱期はあこぎな商売で財をなした人間は多かったのだし(その先祖のあこぎな稼ぎを、今も子孫が受け継いでいる例はいっぱいある)、日本人も『したたか』といえば『したたか』、そうでないと言えばそうでもない。
喧噪で騒々しいサイゴン。その活気が猥雑な雰囲気を醸し出していて、それはそれでまた旅人には興味が尽きない。
そのサイゴンから離れ、南方のCantho市に2泊した。ここはデルタ経済の中心地。ちょうど旧正月テトの直前だったこともあり、里帰りした人たちでにぎわっていたが、しつこいバイクタクシーの呼び込みもなく、なんとなく落ち着いている。あまり英語は通じなかったけれど(これはこちらにも責任がある)、レストランのウエイターたちは根気よく注文に耳を傾けてくれたし、値段を騙る物売りにも行き会わなかった。
この街は、大規模な水上マーケットで有名だ。何十、何百艘の大小の船がメコンの支流に並び、農産物を売買する。その間を観光客を乗せた磯舟が走る。それを見付けた子どもたちが岸辺に走り寄り、笑顔で手を振る。観光客がそれに応えて手を振ると、川で洗濯していた、おやじやおっかあも、ちょっと戸惑いながら恥ずかしげに手を振り返す。まだ、観光ズレしていない。
木造の質素な一般住居に交じって、ところどころにアンバランスな鉄骨コンクリートの立派な建物が建っている。住宅だったり、会社事務所だったりする。商売の成功者なのだろう。ベトナムの経済は、10年以内に大きく変貌する。その活気が地方にも及んでいる。
ひと抱えほどの花や果物を小船に載せて水上市場に運ぶ女性たちの姿は、格好の被写体だ。すばらしく「絵になる」。果たして10年後にこの光景が見られるだろうか-。もうしばらくベトナムをウォッチしてみたい。
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