最近、とても面白い本を続けて読んだ。藤野裕子の「民衆暴力」と伊藤雄馬の「ムラブリ」。両方とも印象に残った個所に付箋を付けているが、あまりに付箋の数が多すぎて、こちらの頭の整理が追いつかない。

 2冊とも図書館から借りたもので、本当なら借り出した順(読み終えた順番でもある)に記録するところだが、今回は後から読んだ「ムラブリ」を先に取り上げる。「ムラブリ」には次の貸し出し予約が数十人控えている。少しでも早く返却してやりたい。「民衆暴力」の予約は現在ゼロ、貸し出し期間の延長がきく。

 ムラブリとは、タイとラオスの国境近くの森を生活の場としている狩猟採集民族(ムラ=人、ブリ=森、つまり森の人の意味)。総勢数百人の少数民族である。言語学者の著者は学生時代から、彼らの村でムラブリ語の調査研究を続けて来た。ムラブリ語は絶滅危惧言語である。

 彼らの性格はシャイで、他人と争うことをひどく嫌い、なにか軋轢が生じそうになると、諍いよりも互いの距離を置くことを選ぶ(アフリカのサン=ブッシュマンもそうだった)。「自己主張し、押しの強さが生き残りのカギ」みたいな現代社会とは真逆の行き方をしている。たまに自分の意見を伝えようとするときも「自分は怒って言っているわけではない」ということを、くどいほど念を入れて繰り返す。

 ムラブリ語の感情表現は独特だ。例えば、たいていの言語では、幸福感を表すのは「心躍る」「up」する。悲しみは「心が沈む」「down」する。しかし、ムラブリ語では「心が上がる」は悲しみや怒りを表し、「心が下がる」が「うれしい」とか「楽しい」を表す。これは言語学的には極めて珍しい。

 脱線するけど、作家の深沢七郎がひとり静かに庭の草むしりをしながら、「幸福感とは沈んだ気持ち」といった趣旨のことを書いていた記憶がある。どこか共通する感性ではなかろうか。自分に正直に生きることを信条とするのも共通する。

 言語帝国主義の英語は、画一的な「up is happy」「positive is good」を押し付けるけど、言葉が違うということは、その感じ方も本当は異なるのかもしれない。物の少ない、一見、向上心がないようにも見える、ムラブリの自由な生き方は、物と常識の虜になっているわれわれ「文明人」の方が、本当は不幸なのかもしれんなあ・・・と気づかせてくれる。

 ムラブリ語を学び彼らの生き方に共感した著者は「日本社会から少しずつはみ出し」、人間関係も含め世の常識が煩わしくなってしまった。大学の先生の仕事も辞めて、今は「独立研究」の日々。「服は基本的に外着と寝巻きを1着ずつ、下着のふんどしを2枚持ち、毎日簡単に洗って着まわしている」。年中、はだしに雪駄か下駄。「日用品はリュックに収まる量しか持たない」というムチャぶり、ならぬ「ムラぶり」。

「日本でムラブリの暮らしを再現したいのではない(それはそもそも無理だ)。ムラブリの身体性を持つ人が、現代日本で違和感のないように生きることを望んだら、どのような生き方を達成するのか。ぼくが追求したいのはそういうことだ」