今回のアンダマン行は、土着の部族(Tribe)の人々が、独自の文化・言語を維持しながら伝統的な暮らしを続ける、アンダマン・ニコバルという島々は、どんなところなのか、を膚で感じるためだった。そうである以上、Tribeのことから話を進めるのが筋だが、今回は1920年代になってビルマ(今のミャンマー)から、「中アンダマン」に移住した、カレン民族の人々の話から始めたい。
そもそもの発端は、ハヴァロック島から「中アンダマン」のランガットに向かう小型フェリーの船上で、カレンの若者サム君19歳に出会ったことだった。それまでカレン民族の人々が、この島にいるなんて全く知らなかった。
サム君は言った。
「僕の祖父はジャパニーズだ(これは私の聞き間違いだったことは、あとで判明する)。今でも日本語(ジャパニーズ)が話せる。僕が子どものころ、祖父から日本語を教わった」
おっかないソース顔のインド人が大半の中、たしかにサム君には、日本人と同じ北方モンゴロイドの面影が見られた。
私は、すぐに「ビルマの竪琴」をイメージした。敗戦でビルマに残った元日本兵が、カレンの女性と結婚してアンダマンに移住していた――得意の“勝手読み”である。
サム君の家は、私が向かおうとしていた「北アンダマン」のディグリプールに行く途中、マヤブンダールの近くにあるらしい。これは是非とも、このおじいさんにお会いしたい。彼にとって日本に戻らずに現地人化し、南の島で生きた戦後60年余りは「幸せ」だったのだろうか?
ランガットで1泊した後、マヤブンダールにバスで向かった。前日に実家に帰宅していたサム君は、弟と一緒にバス停で私を待ち受けていてくれた。カレン民族の人々は、仲間意識が強く、律儀で誠実な人が多い。
マヤブンダールから南へ車で約20分。カレン民族の小さな集落ラタウ村へは、車の走る道路から、さらに徒歩で急な山道を20分間ほど行く。村には十数軒の農家が点在していた。
サム君の家の前では彼の祖父が、私の来るのを待ち受けていた。
祖父は「タケシ」と名乗った。90歳。かなり耳が遠い。日本語で苗字を尋ねたが、まったく要領を得なかった。戦後60年以上もたつと母国語を忘れてしまうものなのか?
サム君の通訳、というよりサム君に聞いているうちにようやく事情が飲み込めてきた。タケシさんは日本人ではなかった。もともと彼はカレン民族。日本軍が第2次大戦中、アンダマンを占拠した際に、日本軍に料理などの雑用係として徴用された。
もともと利発ですぐに日本語を覚えた彼は、他の徴用されたカレンの人々と日本兵との間で通訳のような仕事もした。日本兵からは「タケシ」と呼ばれてかわいがられ、重宝もされたらしい。
日本語はほとんど忘れていたが、今でも「スヤマタイショ」「オカベタイショ」を覚えていた。
彼が急に大声で歌い出した。
♪トォ~シ~ノ ハ~ジメノ ダメシ~トテ~ オ~アリナ~キオノ メデタサオ~
「New Year Song」だった。歌詞はかなりあやふやだったが、メロディーは正確だった。今の日本の子ども達は歌えるのだろうか?「門松立てて旗立てて」の歌である。歌の正確な名前は知らないが、新年を祝う歌である。
うまい!鹿肉カレー卵カレー
サム君の母親が、私のために特別な昼食を用意してくれた。山で獲った鹿肉のカレーとゆで卵のカレー、それと白い米飯。カレンの人々は白い米飯を常食としているようだった。この時の鹿肉カレーは、その後、アンダマンを含め2ヵ月間を過ごしたインドの、どの料理よりも私の口に合った。
住宅は竹材を主体とし、屋根はトタンまたはヤシ(バナナ?)の葉葺き。山間の狭い畑で農業を営んでいる。マヤブンダールの周辺には8つのカレン民族の村がある。アンダマン全体では約4千人のカレン民族がいる。
サム君は言った。「カレンの人々のほとんどは農業。みな貧しい」
昼食は家の前で、私とサム君の2人だけで食った。彼の弟や2人の妹、それにこの食事を作った母親は食べたのだろうか? 少し気が咎めた。
彼の案内で、彼の親戚の家を何軒か訪ねた。その中に亭主がスクーバーダイビングのガイドをやっている一家があった。ここだけはコンクリート造りの家、台所には冷蔵庫、廊下には洗濯機が置いてあった。車も持っていて、他の親戚とは格段の財力の違いを見せつけていた。
その家に立ち寄り、勧められるままにソファで昼寝をした。目覚めると20人くらいの親戚縁者が集まって来ていた。私はびっくりして跳ね起きた。
サム君には、たくさんの親戚がいる。祖母の姪、父の従妹・・・紹介されても誰が誰やら、こんがらかるばかり。でも血の紐帯とでもいうのだろうか、一族の結束の強さが見て取れた。