「松下竜一その仕事18 久さん伝」

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 関東大震災から1年後の1924年9月1日、陸軍大将福田を狙った狙撃事件が発生した。犯人はアナキストの和田久太郎、ズボラな久さんこと「ズボ久」。震災のどさくさの中で憲兵隊によって虐殺された、無政府主義者・大杉栄、伊藤野枝、幼い甥っ子・橘宗一の復讐を企てたのだった。福田は戒厳令下東京の責任者だった。

 ただし、ズボ久の発射したピストルは、彼の意に反して空弾で、小さな火傷の痕を福田の胸付近に残しただけ。ズボ久らしい、間の抜けた暗殺未遂事件に終わった。

 十代半ばからの性病持ち、鬱状態からしばしば姿を消す奇行と剽軽さで仲間内では知られた「久さん」は、大杉を師とも仰ぎ、出版活動などを通して共に何度も警察に捕まった(ただし、伊藤野枝とはそりが合わなかったらしい)。

 狙撃未遂事件の裁判では、死刑が求刑され、久太郎自身も「長年の歳月を費やしてじりじり殺される無期は御免だ」として死刑を望み、遺言までしたためた。「僕の様な貧弱な人間は、先ず先ずこれ位の生き方が出来れば充分だと思っていい」「墓はいらぬ。骨灰を鉢に入れて花を植えて」と、希望の花の名前を列挙した。

 判決は本人の意に反して無期となり、彼は獄中で自死を遂げる。「もろもろの悩みも消ゆる雪の風」の時世の句を残して。遺灰の一部は同志・シンパサイザーによって、庭の畑の肥料にされ、月見草の花を咲かせた。

 そのシンパサイザーの子孫が、著者の取材依頼と問い合わせに対して、お断りの手紙を寄越す。「アナキストにはアナキストのもつ、それなりの過去から現在に至る過程から生じた意地みたいな『緘黙』が」ある、と。

 巻末に沢木耕太郎が「立ちつくす」と題してゲストエッセイを寄せている。その中で沢木は『緘黙』に言及して、アナキストあるいはシンパサイザーの行動を「自らの良心に従ってのことだったに違いない」と書いている。

 12月になると、またぞろ日本人の好きな「忠臣蔵」がイロイロ趣向を変えてテレビなんかで放映されたりするのだろう。同じ復讐譚・テロでも、私(ピカテン)は、47人もの男たちが徒党を組み、たった1人の老人を血祭りにあげて、英雄気取りの忠臣蔵は好かない。ズボラで復讐に失敗した「ズボ久」の方に心惹かれるものがあるのを白状しておこう。

ピエール・ガスカール著「探検博物学者 フンボルト」

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 大探検家にして大博物学者のフンボルトである。なかでも1799年から1804年にかけて踏破した「新大陸赤道地方旅行」は30巻を超える大著である。19世紀の知の巨人と呼ぶべき人物の伝記。

 フンボルトの名前は、南米大陸西海岸沿いに流れる寒流「フンボルト海流」(彼が旅行中に観測した)や、そこに棲息する「フンボルトペンギン」でもよく知られる。

 ちょっと専門に立ち入れば、マメ科植物の「フンボルティー」、ヴェスヴィオ火山中腹で見つかる天然ケイ酸塩の「フンボルティライト」、天然水和シュウ酸鉄の「フンボルタイン」、同じく天然の水和ケイ化ホウ酸カルシウムの「フンボルタイト」などにも彼の名前が残されている。

 ベルリン生まれ育ちながら、ドイツとフランスの両方にルーツを持ち、生涯を通してパリをこよなく愛し、パリ滞在期間も長い。大著もフランス語で書かれた。

 時は西欧ではナポレオンの盛衰、フランス革命、英仏独戦争、中南米では宗主国スペインへの反乱・・・など王権や帝国主義をめぐって歴史が動いていた時代。フンボルトは貴族の一員として長きにわたってプロシャ皇帝の庇護を受け、南米探索にあたってはスペイン国王の支援を受けたが、彼自身は共和主義者であったという。

 南米の未開地に分け入った宣教師の中には、「原住民の魂を救う」ことを名目に「未開部族の中へ人間狩りに出る者がいた」。安上がりの労働力を手に入れるためだった。

「宣教師の1人が、自分の配下の入信したインディオたちの手を借りて、グアイバ族の女1人とその3人の子供を、父親が釣りに出ているすきに連れ出した」。母子は何度も逃亡を試みたが、その度につかまり、逃亡者として厳重に縄をかけられ、宣教師の命令でムチ打たれた。 フンボルトはヨーロッパに戻った後、こうした原住民への仕打ちを告発もしている。一方で、探検に際しては現地宣教師たちの支援を仰いだ。フンボルトを乗せたカヌーの漕ぎ手は布教会に所属するインディオたちで、彼らの脚には逃亡防止の木の足枷がはめられていた。

 宣教師を含む西欧人のアジア、太平洋、アメリカ大陸侵出による、先住民への虐待と彼らの絶滅に関係する記事は、関連①関連②関連③関連④関連⑤関連⑥関連⑦関連⑧関連⑨も参考にしてください。

惨殺70年、アリの墓に血の色のバラを捧げよ

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 私が泊まっていたポートブレアの宿の近くに、ネタジ・クラブ公園がある。その一角に日本軍による最初の犠牲者ザルフィガール・アリの墓がある。

アリの墓

 白い立派な囲いの中に、彼の墓が取り残されたように、というより周囲の住民に見守られるように1基だけ存在している。見せしめのため、そして恐怖で島民を支配するため、家族ら衆人環視の下で虐殺された若者の存在を、今という時代に静かに伝えている。

 彼が殺された当時、この広場は違う名前で呼ばれていた。アリが殺された翌年の1943年12月、インド独立の活動家ネタジ・チャンドラ・ボースが日本軍に招かれてアンダマンを訪れた。これを記念して広場は、ボースの名前をとって「ネタジ」(指導者の意味)の名前で呼ばれるようになった。

 ボースは日本の力を借りて、インドの独立を図ろうと運動していた。日本は彼を後押ししながら、日本によるアジア支配に大義名分を見出していた。日本の「アジア解放」がどんなであったかは、中国で、韓国で、フィリピンで、シンガポールで、そして、このアンダマンでも実際が示している。

 今年2012年3月25日はアリが殺害されて、ちょうど70年に当たる。私がアンダマンに到着した前日だった。その時は、アリの名前などまったく知らなかった。

 彼の命日から1ヵ月遅れの4月25日、ナタジ広場では若者たちがバレーボールに興じていた。私は、そのバレーボールを見物するふりをしながら、アリの墓に近寄った。

   近くのヒンズー寺院前の花屋で買い求めた、血の色を思わせる深紅の小さなバラの花1輪を、囲いの柱に身を隠すようにしながら、柵越しに墓に向けて投げ入れた。墓の横には、小さなピンクの花の塊があった。私より先に花を捧げた住民がいたのだろう。

 私はふだん、墓や墓参りにほとんど意味も興味も見出さない。「この俺が、殊勝にもどうしたことだろう?」。自分の行為をいぶかしく思いながら、心境の変化を考えてみたが、自分でもよく分からなかった。無理に言い表せば、屁理屈になってしまいそうだ。

 精神的・肉体的な疲れも加わって、少し沈んだ気分になっていたせいかもしれない。

 そうだ、このクソ暑い太陽の光のせいだ。「異邦人」に習うなら「アリが死んだ」で、この一文を書き始めるべきだったか・・・

誰の慰霊が一番に必要か?

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 ポートブレアの郊外にガンジー公園という名の真新しい憩いの場がある。通りがかりに入ってみると、どこか日本の公園造りのセンスが感じられた。

ガンジー公園

 築山があり、池があり、池を周回するように1キロほどの遊歩道が設けられている。それにゴミがきわめて少ない。あちこちに「ゴミ捨て禁止」の表示板が立っていた。道路脇や広場はゴミ捨て場と見まごうインドの常識に、ここは反していた。

 公園の中央にあるガンジー像のそばに予期したとおり、「Japanese Temple」があった。この公園造りに、日本がなんらかの形で協力したのだろう。

Japanese Temple

 Japanese Templeは「寺」というより小さな「社」。社の中に、日本人の名前が書かれた木製の板が掲げられていた。「海軍慰霊団参加者名簿」。毛筆の字で10人の名前が並んでいた。

 戦没者の名前が祀られていたのなら納得がいく。なんで社の中に慰霊団参加者名簿が祀られているのだろう。参加者名簿を祀り、拝んでど~するのだろう。

寝転んだ慰霊団参加者名簿

 しかも、その木製の名簿は縦書きのものが、90度横向きに掲げられていた。日本の文字を知らない現地の担当者が、横書きと思いこんで誤って下げたのだろう。(写真をクリックすると拡大します)

 近くにいた公園関係者に、掲示間違いを指摘して公園を後にした。

 南太平洋の島々などに、旧日本軍の関係者が、慰霊団を組織して出かける話は、よく耳にする。このアンダマン慰霊団もそんな1つだったのだろうけれど、島民が多数犠牲になったことを知った今、この慰霊団が現地住民の慰霊をしたのかどうかが気にかかった。日本軍死者の慰霊の前に、現地の人々の霊を慰めることこそが、日本人が最初にすべきことではないだろうか。霊なんぞ、まったく信じていない当方だが、そう思う。

 待てよ、社の名簿木札が90度横向きに下がっていたのは、意外に意図的な行為だったのかもしれん。深謀遠慮、私の指摘は余計なおせっかいだったのかも・・・

 カレンの村では、日本軍に協力したおかげで、その後つらい目に遭わされたカレンの人々の運命に同情した。だけど、他の島民の悲劇を知り、単純にカレン民族ばかりに肩入れはできなくなった。

  一朝一夕で消え去るような軽い記憶ではない。「わが日本軍は、こんな平和な小さな島でなんてことをしてくれたんだ」。父母や祖父母の世代に向けて、ひと言文句を言いたい気分になった。

ボースの「自由インド」“独立”の陰で

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 日本に戻ると、カナダのトロントに住む布施豊正先生(札幌出身)から、手紙が届いていた。布施先生は大学で自殺学を研究し、退職後はインド独立の活動家ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースについて研究している。

 ボースは戦前・戦中、日本に亡命して、日本の後押しで英国の植民地だったインドの独立を謀っていた。私がアンダマンを彷徨っているのを知った布施先生は

「昭和18年(1943年)11月5日、東京で『大東亜会議』が開かれ、ボースの自由インド仮政府に、日本帝国から、初めての領土としてアンダマン諸島が贈られました。

 アンダマン諸島のインド洋で、ナチス・ドイツのUボートと帝国海軍の「伊号潜水艦」との間で、ボースの移乗が成功し、私たち旧制中学生が興奮したのを懐かしく思い出します」

ボースの来島と日本軍の蛮行を記録したパネル

 ボースは、日本軍が支配していたアンダマンに、1943年12月29日から3日間滞在した。30日には、自由インドの象徴でもある三色旗を、ポートブレアに掲げた。植民地インドに掲げられた初めての三色旗であり、「独立」でもあった。ボースはアンダマン・ニコバル諸島をシャヒード(殉難者)・スワラジ(自由)と改名した。

 一方で、日本軍支配下の島民の生活は困窮を極めていた。親英国を疑われた人々の逮捕と拷問・殺害が続き、食料など生活物資も滞った。

 ポートブレアにあるセルラー刑務所は、英国統治下では独立運動の活動家たちが収容され、ここで亡くなった活動家も多い。日本支配下では、親英国を疑われた島民がここに入れられた。

 日本軍の収容者に対する虐待は、独立運動の活動家たちにも向けられた。「The beautiful India  Andaman and Nicobar」」によると

――ある日、600人の収容者が釈放を告げられ、船に乗せられた。海岸から遠く離れた洋上に着くと、日本兵は銃剣で脅し、収容者を海に飛び込ませた。300人が溺死。残りはハヴァロック島に泳ぎ着いた。

   不幸なことに、この島には武装したビルマ人(カレン人であろう)が10人いた。彼らは、泳ぎ着いた人々を100人ほど殺し、立ち去った。

    島には食料もなかった。日本兵とビルマ人の残忍な行為から生き延びた人々も、次々と亡くなり、連合軍が再支配した時、たった2人しか生き残っていなかった――

    戦後、英国は、日本に協力した島民を摘発し、報復した。日本軍に虐殺された島民の遺族の怒りは、同じ島民であるカレンの人々に一層熾烈にぶつけられたであろうことは、想像に難くない。(写真をクリックすると拡大します

1943年1月30日

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 宿のおやじ(ボス)が、このところ私に対して不機嫌だ。祖父が日本軍に殺された話をして以来である。

 ボスは大変な記憶力の持ち主で、私自身覚えていない私のパスポート・ナンバーを、1度見ただけで記憶していた。彼には、それまでにいろいろなことを教わった。冗談も好きで「1つの情報につき100ルピーよこせ」といって私を困らせた。

 その彼が、このところあまり話したがらない。

 祖父の殺された日付を聞くと、ぶっきらぼーに、だけど即座に「1943年1月30日」と答えた。

 私は本の中に出ていた、処刑者リストの中から、その日の処刑者7人の名前を見せた。その名簿を見て、ボスは怒りの声を上げた。

  「誰だ!こんなこと教えたヤツは?!」

    剣幕に押されて、本からの抜き書きであることを告げると

   「これは、じいさんの名前じゃない。甥っ子の名前だ! まったく誰なんだ。こんな間違いを教えたヤツは!」

   怒りはこの私にも向けられていた。

   「俺はこの話をするのが大嫌いなんだ。子どものころから、学校の授業で、この話が取り上げられるたびに、イヤでイヤで仕方なかったんだ」

   私は彼の怒りなど気づかないふりをして、さらに聞く。「Why?」

  「何故かって?」。ボスはいらだたしげに早口でまくし立てた。私の英語力ではついていくことはできなかった。

    憶測するに、祖父は祖父。孫である俺は俺。自分はロッジの経営者であって、祖父のことなど飯のタネにもならぬ。祖父の話など一文の得にもならん――とでも言ったようだった。

    自分を彼の立場に置いてみる。憶測が当たっているとしたら、彼の気持ちも分からないでもない。自分の祖父が犠牲者であったことなど、あまり口にはしたくないだろう。今さら、祖父のことを話して何になる、という気持ちと同時に、心の奥深くに加害者に対する怨みが焼きつけられているのではないだろうか。それは何世代にもわたって、密かに伝えられていく。

    こんな時、言葉の壁があるということは、利点でもある。互いに決定的な敵対関係にまで発展しないで、まあまあで済ますことができる。少し気まずい思いをしながら、ボスとの話はそこでお仕舞いになった。

    宿のカミさんがあとを引き継いだ。

   「殺された祖父は教師でした。義母はもう亡くなりましたが、生きていたころは、よく日本軍の残虐な仕打ちを話していました。捕まえてきた島民を砂浜に埋めて痛めつけ、見ている前で次々と銃で撃ち殺した」

    劣性に陥った日本軍の焦りが、弱い現地住民に向けられたのだろう。と同時に、生真面目な日本人の持つ、負の一面が露呈したように思われてならない。

    おカミさんは続けた。「そんな記憶も、私たちの親の世代まで。今では忘れられかけているけどね・・・」。最後の言葉は私に対する配慮かも知れない。

     たしかに、私自身はあからさまな反日感情にさらされることはなかったが、島民の心の底には、深く沈殿するものがあるのではないだろうか。時折出会う、島民のよそよそしい態度に、今では友好国になった日本人に対する複雑な思いが隠されているような気がしてならない。

    日本人の大半は、私と同様アンダマンでの日本軍の行為を知らない。しかし、インド人は、大半の国民がこの話を知っている。

    ニューデリーからアンダマンに遊びに来ていた、日本びいきの青年は、私をなぐさめるように、言ってくれた。

   「それ(日本軍の島民虐殺)は、時代というもののせいです」

日本軍の島民虐殺

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 アンダマンの州都ポートブレアに戻り、常宿としていたロッジの主人(通称ボス)に聞いてみた。

 「私はアンダマンの歴史について何も知らないでここに来た。日本軍がここで多数の島民を殺害したというのは本当か?」

 ボスが答えるより先に、横からおカミさんが答えた。

 「殺された島民は千人を下らない。ボスの祖父も殺された1人です」

 私は思わず「I’m sorry」と言ってしまったけれど、ボスは「それは、あなたの問題じゃない」と一蹴した。

 アンダマンでの日本軍の行動をもう少し詳しく知りたい。何か当時を伝える書類または書物のようなものはないか? 島には教科書を扱う本屋はあるが、一般書はほとんど置いていない。

 「図書館に行けば、その手の本が読めるだろう」

 ボスのアドバイスで、図書館に行った。職員が2冊の本を選んでくれた。

「A Regime of Fears and Tears」(恐怖と涙の時代)、「Japanese in the Andaman & Nicobar」(アンダマン・ニコバル諸島の日本軍)

 この2冊によると、以下のようだった。

―― 日本軍がアンダマンに来て3日目の1942年3月24日、2人の日本兵がアバディーン村(今のポートブレアの中心街。わが宿もここの一角にある)に遊びに来た。2人は路上にいた鶏を追いかけて民家に入り込み、それをつかまえた(一説には女性にいたずらしようとして、民家に侵入したとも伝えられる)。

 これに怒った地元の若者の1人ザルフィガール・アリが、2人に目がけてエアガンを発射した。2人は逃げて無事だったが、この報告を受けた日本軍は付近の民家を焼き払い、翌朝までにアリを出頭させるよう住民に命令した。

 友人や兄弟にかくまわれていたアリは、後難を恐れた住民や家族の説得で日本軍に出頭した。

 25日。全住民が集められ見守る中、村の広場に引き立てられたアリは、両腕の骨が折れるまでねじ曲げられ、拷問を受けた後、銃殺された。「アジアの解放者」を名乗った日本軍による最初の犠牲者だった。

 その後、いったんはこの地を撤退した英国軍など連合国の反撃が、このベンガル湾でも激しくなった。ポートブレアに向かっていた日本の船が、次々と攻撃を受け、沈没した。連合軍の攻撃は正確で、あきらかに日本軍の動きを事前に察知していた。

 「島民の中にスパイがいる。連合国に日本軍の情報を伝えている者がいる」

 疑心暗鬼にかられた日本軍は、42年10月ころから、スパイ狩りを始めた。英国にシンパシーを抱いている容疑で、島民を次々と逮捕した。アンダマンの行政官、警察官、医師、教師など島の有力者が多く含まれていた。彼らは激しい拷問にさらされ、2度と刑務所の外に出てくることはなかった――

スパイ容疑でたくさんの島民が入れられたセルラー刑務所

 島民への見せしめの意味もあったのだろう。人事不省に陥った島民を、日本兵が繰り返し投げ飛ばし、地面にたたきつける。「まるで洗濯女が、洗濯物を頭上に振り上げ、地面にたたきつけるようだった。島民は、これが日本の柔術というものであることを知り、恐れた」。気絶状態の人間を、まるでボロ切れのように、繰り返し投げ飛ばしたのだろう。

 アンダマンを徘徊していて、「Japanese’s coming , black out coming」のフレーズを、全く違う場所で2度耳にした。多分、この言い回しが、慣用句のように使われているのだろう。「Black out」が何を意味するか? 単なる灯火管制のことを指すのか、暗黒社会の到来を意味するのか、私の英語力では判断がつかない。どちらにしろ、日本軍のアンダマン支配にかかわる表現であることは間違いない。

タケシさんとサム君

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  今回のアンダマン行は、土着の部族(Tribe)の人々が、独自の文化・言語を維持しながら伝統的な暮らしを続ける、アンダマン・ニコバルという島々は、どんなところなのか、を膚で感じるためだった。そうである以上、Tribeのことから話を進めるのが筋だが、今回は1920年代になってビルマ(今のミャンマー)から、「中アンダマン」に移住した、カレン民族の人々の話から始めたい。

    そもそもの発端は、ハヴァロック島から「中アンダマン」のランガットに向かう小型フェリーの船上で、カレンの若者サム君19歳に出会ったことだった。それまでカレン民族の人々が、この島にいるなんて全く知らなかった。

 サム君は言った。

「僕の祖父はジャパニーズだ(これは私の聞き間違いだったことは、あとで判明する)。今でも日本語(ジャパニーズ)が話せる。僕が子どものころ、祖父から日本語を教わった」

 おっかないソース顔のインド人が大半の中、たしかにサム君には、日本人と同じ北方モンゴロイドの面影が見られた。

 私は、すぐに「ビルマの竪琴」をイメージした。敗戦でビルマに残った元日本兵が、カレンの女性と結婚してアンダマンに移住していた――得意の“勝手読み”である。

 サム君の家は、私が向かおうとしていた「北アンダマン」のディグリプールに行く途中、マヤブンダールの近くにあるらしい。これは是非とも、このおじいさんにお会いしたい。彼にとって日本に戻らずに現地人化し、南の島で生きた戦後60年余りは「幸せ」だったのだろうか?

 ランガットで1泊した後、マヤブンダールにバスで向かった。前日に実家に帰宅していたサム君は、弟と一緒にバス停で私を待ち受けていてくれた。カレン民族の人々は、仲間意識が強く、律儀で誠実な人が多い。

 マヤブンダールから南へ車で約20分。カレン民族の小さな集落ラタウ村へは、車の走る道路から、さらに徒歩で急な山道を20分間ほど行く。村には十数軒の農家が点在していた。

 サム君の家の前では彼の祖父が、私の来るのを待ち受けていた。

 祖父は「タケシ」と名乗った。90歳。かなり耳が遠い。日本語で苗字を尋ねたが、まったく要領を得なかった。戦後60年以上もたつと母国語を忘れてしまうものなのか?

 サム君の通訳、というよりサム君に聞いているうちにようやく事情が飲み込めてきた。タケシさんは日本人ではなかった。もともと彼はカレン民族。日本軍が第2次大戦中、アンダマンを占拠した際に、日本軍に料理などの雑用係として徴用された。

 もともと利発ですぐに日本語を覚えた彼は、他の徴用されたカレンの人々と日本兵との間で通訳のような仕事もした。日本兵からは「タケシ」と呼ばれてかわいがられ、重宝もされたらしい。

 日本語はほとんど忘れていたが、今でも「スヤマタイショ」「オカベタイショ」を覚えていた。

 彼が急に大声で歌い出した。

 ♪トォ~シ~ノ ハ~ジメノ ダメシ~トテ~ オ~アリナ~キオノ メデタサオ~

「New Year Song」だった。歌詞はかなりあやふやだったが、メロディーは正確だった。今の日本の子ども達は歌えるのだろうか?「門松立てて旗立てて」の歌である。歌の正確な名前は知らないが、新年を祝う歌である。

 

うまい!鹿肉カレー卵カレー

 サム君の母親が、私のために特別な昼食を用意してくれた。山で獲った鹿肉のカレーとゆで卵のカレー、それと白い米飯。カレンの人々は白い米飯を常食としているようだった。この時の鹿肉カレーは、その後、アンダマンを含め2ヵ月間を過ごしたインドの、どの料理よりも私の口に合った。

 住宅は竹材を主体とし、屋根はトタンまたはヤシ(バナナ?)の葉葺き。山間の狭い畑で農業を営んでいる。マヤブンダールの周辺には8つのカレン民族の村がある。アンダマン全体では約4千人のカレン民族がいる。

サム君は言った。「カレンの人々のほとんどは農業。みな貧しい」

 昼食は家の前で、私とサム君の2人だけで食った。彼の弟や2人の妹、それにこの食事を作った母親は食べたのだろうか? 少し気が咎めた。

 彼の案内で、彼の親戚の家を何軒か訪ねた。その中に亭主がスクーバーダイビングのガイドをやっている一家があった。ここだけはコンクリート造りの家、台所には冷蔵庫、廊下には洗濯機が置いてあった。車も持っていて、他の親戚とは格段の財力の違いを見せつけていた。

 その家に立ち寄り、勧められるままにソファで昼寝をした。目覚めると20人くらいの親戚縁者が集まって来ていた。私はびっくりして跳ね起きた。

    サム君には、たくさんの親戚がいる。祖母の姪、父の従妹・・・紹介されても誰が誰やら、こんがらかるばかり。でも血の紐帯とでもいうのだろうか、一族の結束の強さが見て取れた。

佐野眞一著「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社1900円)

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 詳細な取材で甘粕の人物像を浮き彫りにした力作。大杉栄一家殺害で知られる甘粕は、よく言われるような「単純な冷血魔」ではなかった。

 彼は憲兵隊や警察の組織的犯罪を、わが身で一身に引き受けた疑いが濃厚だ。スケープゴートというには、甘粕自身が殺害に深く関わり過ぎているけれど、彼ひとりの犯行というのはおかしい。軍事法廷の判決では、子供を殺した人間が誰もいない、というへんてこな結末になっている。

 

 関東大震災の際、司法や軍のトップから「朝鮮人や主義者の破壊活動」が流布され、市井の自警団組織によって朝鮮人が殺害されたのと軌を一にする。どーも、主義者や朝鮮人を抹殺することは不正義ではない、否、日本のためであった、とする国民的総意のようなものがあったのではないか?

 

 天皇の慶事にかこつけて短期間で刑期を終えた甘粕は、満州で満鉄や満映を舞台に謀略活動を行った。そこには右翼、左翼を問わず、様々な人間がつながっていた。戦後、それらの人物が、表は岸信介、裏はヤクザの親分まで、さまざまな世界に流入し力を持ったらしい。

 

 事件後半世紀もたって、事件直後に3人を検視解剖した医師の鑑定書が発見された。軍事法廷で認定されたのとは異なり、鑑定書からは大杉一家はひどいリンチを受けて殺害されたことが明らかだった。これは小林多喜二のときと同じだ。警察をはじめ司法は今もって、ことの真相を明らかにせず、ほおかむりしたままだ。

 司法組織や軍組織(つまりは自衛隊)の一部には、甘粕につながる謀略DNAが今も流れているんじゃないか、とアタシは勝手に疑っている。