私が泊まっていたポートブレアの宿の近くに、ネタジ・クラブ公園がある。その一角に日本軍による最初の犠牲者ザルフィガール・アリの墓がある。

アリの墓

 白い立派な囲いの中に、彼の墓が取り残されたように、というより周囲の住民に見守られるように1基だけ存在している。見せしめのため、そして恐怖で島民を支配するため、家族ら衆人環視の下で虐殺された若者の存在を、今という時代に静かに伝えている。

 彼が殺された当時、この広場は違う名前で呼ばれていた。アリが殺された翌年の1943年12月、インド独立の活動家ネタジ・チャンドラ・ボースが日本軍に招かれてアンダマンを訪れた。これを記念して広場は、ボースの名前をとって「ネタジ」(指導者の意味)の名前で呼ばれるようになった。

 ボースは日本の力を借りて、インドの独立を図ろうと運動していた。日本は彼を後押ししながら、日本によるアジア支配に大義名分を見出していた。日本の「アジア解放」がどんなであったかは、中国で、韓国で、フィリピンで、シンガポールで、そして、このアンダマンでも実際が示している。

 今年2012年3月25日はアリが殺害されて、ちょうど70年に当たる。私がアンダマンに到着した前日だった。その時は、アリの名前などまったく知らなかった。

 彼の命日から1ヵ月遅れの4月25日、ナタジ広場では若者たちがバレーボールに興じていた。私は、そのバレーボールを見物するふりをしながら、アリの墓に近寄った。

   近くのヒンズー寺院前の花屋で買い求めた、血の色を思わせる深紅の小さなバラの花1輪を、囲いの柱に身を隠すようにしながら、柵越しに墓に向けて投げ入れた。墓の横には、小さなピンクの花の塊があった。私より先に花を捧げた住民がいたのだろう。

 私はふだん、墓や墓参りにほとんど意味も興味も見出さない。「この俺が、殊勝にもどうしたことだろう?」。自分の行為をいぶかしく思いながら、心境の変化を考えてみたが、自分でもよく分からなかった。無理に言い表せば、屁理屈になってしまいそうだ。

 精神的・肉体的な疲れも加わって、少し沈んだ気分になっていたせいかもしれない。

 そうだ、このクソ暑い太陽の光のせいだ。「異邦人」に習うなら「アリが死んだ」で、この一文を書き始めるべきだったか・・・