日本に戻ると、カナダのトロントに住む布施豊正先生(札幌出身)から、手紙が届いていた。布施先生は大学で自殺学を研究し、退職後はインド独立の活動家ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースについて研究している。

 ボースは戦前・戦中、日本に亡命して、日本の後押しで英国の植民地だったインドの独立を謀っていた。私がアンダマンを彷徨っているのを知った布施先生は

「昭和18年(1943年)11月5日、東京で『大東亜会議』が開かれ、ボースの自由インド仮政府に、日本帝国から、初めての領土としてアンダマン諸島が贈られました。

 アンダマン諸島のインド洋で、ナチス・ドイツのUボートと帝国海軍の「伊号潜水艦」との間で、ボースの移乗が成功し、私たち旧制中学生が興奮したのを懐かしく思い出します」

ボースの来島と日本軍の蛮行を記録したパネル

 ボースは、日本軍が支配していたアンダマンに、1943年12月29日から3日間滞在した。30日には、自由インドの象徴でもある三色旗を、ポートブレアに掲げた。植民地インドに掲げられた初めての三色旗であり、「独立」でもあった。ボースはアンダマン・ニコバル諸島をシャヒード(殉難者)・スワラジ(自由)と改名した。

 一方で、日本軍支配下の島民の生活は困窮を極めていた。親英国を疑われた人々の逮捕と拷問・殺害が続き、食料など生活物資も滞った。

 ポートブレアにあるセルラー刑務所は、英国統治下では独立運動の活動家たちが収容され、ここで亡くなった活動家も多い。日本支配下では、親英国を疑われた島民がここに入れられた。

 日本軍の収容者に対する虐待は、独立運動の活動家たちにも向けられた。「The beautiful India  Andaman and Nicobar」」によると

――ある日、600人の収容者が釈放を告げられ、船に乗せられた。海岸から遠く離れた洋上に着くと、日本兵は銃剣で脅し、収容者を海に飛び込ませた。300人が溺死。残りはハヴァロック島に泳ぎ着いた。

   不幸なことに、この島には武装したビルマ人(カレン人であろう)が10人いた。彼らは、泳ぎ着いた人々を100人ほど殺し、立ち去った。

    島には食料もなかった。日本兵とビルマ人の残忍な行為から生き延びた人々も、次々と亡くなり、連合軍が再支配した時、たった2人しか生き残っていなかった――

    戦後、英国は、日本に協力した島民を摘発し、報復した。日本軍に虐殺された島民の遺族の怒りは、同じ島民であるカレンの人々に一層熾烈にぶつけられたであろうことは、想像に難くない。(写真をクリックすると拡大します