今回のアンダマン行のそもそもの目的は、外界との交流を拒絶し、遺伝子の面でも文化的にも周囲とは異なる独自の道を歩んできたアンダマンのTribe(部族とか氏族と訳されている)に関する関心からだった。

 1ヵ月間のアンダマン滞在許可期限が迫っていたある日、中アンダマンにある泥火山と鍾乳洞を訪ねるツアーに参加した。「ツアーの途中でTribeの1つジャラワに出会えるかもしれない」。泥火山や鍾乳洞よりも、その期待の方が大きかった。

 南アンダマンの北部は、ジャラワの保護区、つまりは彼らのテリトリーである。南アンダマンの南端に位置するポートブレアを出発したツアーバスは、保護区を縦断する道路を1時間半ほどかけて走り抜ける。

 保護区は通常、立ち入りが厳しく禁止されている。この縦断道路を通るのが、保護区に入る唯一の機会である。時折、その道路にジャラワの人々が姿を見せることがある、と聞いていた。

 実をいうと、ツアーの1週間ほど前、北アンダマンからポートブレアへの帰り道に、このコースを路線バスで通り抜けた。途中、目を皿のようにして道路脇の藪の中を見ていたが、それらしき人影は見当たらなかった。

 ツアーはその再チャレンジだった。

保護区の手前でゲートが開くのを待つバスの列

 保護区の南北の出入り口にはゲートが設けられ、警官たちが警戒している。1日に南北両方から4回だけ一斉に車の通り抜けを許す。ゲートが開く時間になると、旗を立てた警察車両が先頭を切り、バスが続く。バスには鉄砲を持った警官が乗り込んだ。あんまり精悍な感じでない老警官だったから、お飾りみたいなもんだろうけど。

 バスの後に一般の車両が続き、時速40キロの制限速度で整然と列を作って保護区を通り抜ける。

 ゲート前には、通過する際の禁止事項が書き連ねてあった。違反すると刑務所に入れられる可能性もある。

保護区通過の注意書き

1.保護区内は写真撮影厳禁

2.ジャラワの人々を車に乗せてはならない

3.ジャラワの人々に食べ物その他を与えてはならない

4.スピード厳守。追い抜き禁止

 等々。

   もともとTribeは、ジャラワに限らず保護区外でたまたま見かけたとしても写真撮影は禁じられている。

   当方、元来が順法精神に富んでいる方ではない。機会があったら、そしてそれだけの価値があったら、法を破ることもありうべし、と内心では思っている。

    フェリーの中で接触してきた、ツアー代理店業のニイさんは「こっそりTribeの村に連れて行ってやる」と持ちかけてきた。私は、今回は違法行為までしてTribeに会い、写真撮影をする必要性を感じなかった。「また今度ね」と断った。

    ツアーバスが南側の入り口から1時間ほど走ったところで、道路右側を歩いてくる3人の姿が見えた。こんなところを人が・・・?

   運転手が怒鳴った。「ジャラワだ!」

   明らかに一般の島民とは風体が異なっていた。夫婦と子どものファミリーだった。男は腰に何か着けていた以外は裸。妻と思われる女は、何かハデな色の布を体にまとっていた。3人目は残念ながら「いた」という記憶だけで、それが子どもだったかどうか、の記憶さえあいまい。あとで、後部座席にいたドイツ人カップルから、3人目が子どもだったことを教えられた。彼らも子どもが男だったのか女だったのか、は分からなかった。

    私の席は、旅行代理業もやっている宿の主人が、特別に手配してくれた、運転手の横の「特等席」。後ろの席が、通り過ぎるときに一瞬だけ道路脇が垣間見えるのに対し、私の特等席からは、前方が遠くまで見通せる。

    この時は、3人の後方50メートルほどの道路反対側を歩いていた、もう1人の男に気を取られた。この男もジャラワだった。男はバスの運転手に向かって片手を上げて合図し、運転手も軽く手を上げて応じた。なんだか顔見知りみたいだった。この男も股間を隠す布以外は裸だった。

    帰りにもこの道路でジャラワに出会った。

    最初の1人は青年で、均整の取れた中肉中背の身体。肩や腕の筋肉がよく発達して黒光りし、美しい肉体の見本のようだった。足元には40センチくらいの黒いナマズが置いてあった。今、川から獲ってきたのだろう。

     次の1人は、先の青年より小柄で若かった。長さ1.5メートルほどの白く細い木の棒を数本束ね、その両端を細いひも状の布で結び、その布をおでこで支えて運んでいた。バスを見上げる目が大きく見開かれ、黒い顔の中で大きな白目が印象に残った。この人が服を着ていたものやら、男か女かもはっきりしない。人間の目の力、記憶力というものは、あてにならないものである。

     もう1人は男だった。先の2人より年上。道路脇の草むらに腰を下ろしていた。ちょうど股間が左手の陰になっていたので、正確には分からないが、大切な部分はふんどし状のもので覆っていたようだった。

     通りすがりに一瞬とはいえ、往復で7人と出会えたのは幸運だった。彼らはいずれもアフリカの人たちに姿形がそっくりだった。

    かつてジャラワの人たちは、外界に対して激しい敵意を見せた。テリトリーへの侵入者は誰彼なく攻撃した。彼らの戦い方は、深い森と谷を活かした頭脳的なものだった。英国人のように強力な武器を携えている敵に対しては、相手を攻撃するとすぐに森の奥深くに逃れ、追撃を許さなかった。

うっそうとしたジャラワ保護区

    第2次大戦中、日本軍はジャラワのテリトリーを猛爆撃した。これも彼らの外部世界に対する敵意を、一層強めることにつながった。

    近年は次第にこの敵意を和らげ、通行車両を無闇に攻撃するようなことはないらしい。路上で彼らの姿を見かけるようになったのも、その表れだろう。

    現在の人口は推定200人。この50年間で半数以下に減少したといわれる。