アンダマン・ニコバル諸島には、6つのTribe(部族)がいる。アンダマン諸島に住む「グレート・アンダマニ」、「ジャラワ」、それに「センティネリー」「オンゲ」の4Tribeは“アフリカ系”の「ネグリト」とされ、ニコバル諸島の「ニコバリー」と「ションペン」は、モンゴロイド系(いわゆる北方モンゴロイド系)とされる。“アフリカ系”ネグリトの総人口は千人を切り、4Tribe合わせても500人程度と言われる。

 ネグリトの中で私が出会ったのは、先のジャラワとグレート・アンダマニの2Tribe。グレート・アンダマニは、かつてアンダマン諸島の主要勢力で、推定人口は5千人を数えた。

 それが、19世紀になって英国人がこの地にやって来るようになって以来、急速にその数を減らした。大きなダメージを受けたのは、1859年の英国人植民者との戦いだった。弓と矢のグレート・アンダマニに対し、銃で武装した英国人。「アバディーンの戦い」と言われるこの戦争で、彼らの多くが命を落とした。

 その後、グレート・アンダマニは英国人との接触を深め、英国も彼らに友好的に振る舞った。他の3部族が、あくまで外部からの侵入者に敵愾心を燃やし続けたのとは対照的だった。その『文明人』との接触が、グレート・アンダマニを一層困難に陥れた。英国人が持ち込んだ病気に対する免疫が彼らにはなかった。

 1世紀の間に人口は30人ほどにまで激減した。現在の人口は50人だが、絶滅寸前であることに変わりはない。英国の植民政策でアボリジニが絶滅したオーストラリアのタスマニアと同じ運命をたどるのかもしれない。タスマニアのアボリジニも、ネグリトと共通点の多いTribeだったと言われる。

 現在、この50人は中アンダマンの1つの島・ストレート島に集められ、リハビリ生活を送っている。リハビリの実態がどのようなものなのか、その意味するところも私には判然としないのだが、50人のグレート・アンダマニに対し、ほぼ同数のサポート隊が政府からこの島に派遣され、彼らのために働いているのだそうだ。

ストレート島

 私が彼らを目撃したのは、ストレート島の沖合に停泊した小型フェリーの甲板の上からだった。島から1隻の小舟が、われわれのフェリーに向かって来た。たまたまフェリー上で知り合い、この島について教えてくれた旅行代理店マネジャーとIT関連会社の社員が、あわてて私に注意した。

「カメラを早くしまって。警官に見つかるとやっかいなことになる」

 アンダマン入域許可証では、Tribeの保護区に入ることが禁止されているのはもちろんのこと、保護区外でたまたま彼らに出会ったとしても、写真撮影は御法度とされている。

 甲板の上から眺めていると、フェリーに横付けした小舟には、サポート隊のインド人数人と初老のグレート・アンダマニ1人が乗っていて、フェリーから物資を受け取った。サポート隊員の交代もあった。

 突然、われわれのフェリーの乗船口に3人の若い男が現れ、小舟に乗り移った。アフリカ系を思わせる短く縮れた頭髪、皮膚の色、顔つきなど、周りのインド人とは明らかに異なる。彼らもグレート・アンダマニだった。

 グレート・アンダマニは、4人とも他のインド人同様の衣服を身に着けていた。ほぼ裸のジャラワとは対照的だ。若い3人は、ズボンのお尻のあたりがはち切れそうなほど太っていた。フェリーの乗船口と小舟の間には2メートルほどの落差がある。彼らは周りに助けられて、ようやく小舟に乗り移った。あまり機敏には見えなかった。1859年以前の彼らは、他の3部族同様、身に何も着けていなかった。

 ストレート島沖に着くまでの航行中、フェリー船内に3人がいたという記憶がない。小さなフェリーである。キャビンか甲板にいたのなら、必ず見かけるはずである。ストレート島に着いて、突然彼らは乗船口に現れた。

    好奇の対象となったり、写真撮影など無用のトラブルを避けるため、航行中は船内の人目につかない部屋に匿われていたのだろう。

 年格好からすると、3人は10代後半から20歳くらい、学生のように見えた。学校はちょうど長い休暇に入ったばかりだった。休みを家族と過ごすため、今はふるさとになった、この島に戻ってきた。そんなところじゃ、なかろうか。