宿のおやじ(ボス)が、このところ私に対して不機嫌だ。祖父が日本軍に殺された話をして以来である。

 ボスは大変な記憶力の持ち主で、私自身覚えていない私のパスポート・ナンバーを、1度見ただけで記憶していた。彼には、それまでにいろいろなことを教わった。冗談も好きで「1つの情報につき100ルピーよこせ」といって私を困らせた。

 その彼が、このところあまり話したがらない。

 祖父の殺された日付を聞くと、ぶっきらぼーに、だけど即座に「1943年1月30日」と答えた。

 私は本の中に出ていた、処刑者リストの中から、その日の処刑者7人の名前を見せた。その名簿を見て、ボスは怒りの声を上げた。

  「誰だ!こんなこと教えたヤツは?!」

    剣幕に押されて、本からの抜き書きであることを告げると

   「これは、じいさんの名前じゃない。甥っ子の名前だ! まったく誰なんだ。こんな間違いを教えたヤツは!」

   怒りはこの私にも向けられていた。

   「俺はこの話をするのが大嫌いなんだ。子どものころから、学校の授業で、この話が取り上げられるたびに、イヤでイヤで仕方なかったんだ」

   私は彼の怒りなど気づかないふりをして、さらに聞く。「Why?」

  「何故かって?」。ボスはいらだたしげに早口でまくし立てた。私の英語力ではついていくことはできなかった。

    憶測するに、祖父は祖父。孫である俺は俺。自分はロッジの経営者であって、祖父のことなど飯のタネにもならぬ。祖父の話など一文の得にもならん――とでも言ったようだった。

    自分を彼の立場に置いてみる。憶測が当たっているとしたら、彼の気持ちも分からないでもない。自分の祖父が犠牲者であったことなど、あまり口にはしたくないだろう。今さら、祖父のことを話して何になる、という気持ちと同時に、心の奥深くに加害者に対する怨みが焼きつけられているのではないだろうか。それは何世代にもわたって、密かに伝えられていく。

    こんな時、言葉の壁があるということは、利点でもある。互いに決定的な敵対関係にまで発展しないで、まあまあで済ますことができる。少し気まずい思いをしながら、ボスとの話はそこでお仕舞いになった。

    宿のカミさんがあとを引き継いだ。

   「殺された祖父は教師でした。義母はもう亡くなりましたが、生きていたころは、よく日本軍の残虐な仕打ちを話していました。捕まえてきた島民を砂浜に埋めて痛めつけ、見ている前で次々と銃で撃ち殺した」

    劣性に陥った日本軍の焦りが、弱い現地住民に向けられたのだろう。と同時に、生真面目な日本人の持つ、負の一面が露呈したように思われてならない。

    おカミさんは続けた。「そんな記憶も、私たちの親の世代まで。今では忘れられかけているけどね・・・」。最後の言葉は私に対する配慮かも知れない。

     たしかに、私自身はあからさまな反日感情にさらされることはなかったが、島民の心の底には、深く沈殿するものがあるのではないだろうか。時折出会う、島民のよそよそしい態度に、今では友好国になった日本人に対する複雑な思いが隠されているような気がしてならない。

    日本人の大半は、私と同様アンダマンでの日本軍の行為を知らない。しかし、インド人は、大半の国民がこの話を知っている。

    ニューデリーからアンダマンに遊びに来ていた、日本びいきの青年は、私をなぐさめるように、言ってくれた。

   「それ(日本軍の島民虐殺)は、時代というもののせいです」