飛行機にしろ医療現場にしろ事故が発生すると、原因究明と称して法的な責任が追及されるのが常だ。原因が意図的なものならともかく、意図しないエラーに法的な責任を課することは本当に正しいことなのだろうか?

ヒューマンエラーは誰でも起こしうる。しかもある確率で確実に起きる。司法システムの介入が、実務者の報告意欲をそぎ、事故防止に資するデータの蓄積を妨げている、と著者は考える。

 

たしかに事故発生後の原因究明は、「あと知恵」であることがほとんどだ。警察の訴追も、メディアの議論もしょせん同様である。事故とは直接関係ないことまでも含めて、法令違反を血眼になって探し求める。さがせば瑕疵のひとつやふたつ見つかるものである。

でも、そんなものは、今後の事故防止には何の役にも立たない。逆に当事者は訴追されることを恐れ、自己防衛に力を注ぐようになり、事故防止の観点からはマイナスに働く。

 

真実に迫るには多層的な説明が必要である。事実は人によって異なり、さまざまに語られうる。大きなシステムの中の事故では、全体の小さな問題が複雑に絡み合って、ある時点で事故となって現れる。事故現場ひとりに責任を課することでは、今後の事故は防げない。

法廷とは「もっとも真実らしい説明を1つだけ選ぶ場」であって、多層的な説明を求める場ではない。「事実は1つ」の「幻想」が支配している。

 

ちょっと驚いたのは欧米の多くの国では、航空機などの事故調査報告は裁判の証拠として使用することを禁じているのだそうだ。現場からの聴取が容易になるように。調査結果が自分の訴追に繋がる恐れがあれば、実務者は誰も口を開かなくなるだろう。

でも日本では調査報告がそのまま警察・検察の鑑定書となり裁判の証拠になる。

 

ヒューマンエラーをサイエンスとして考えると、以上のような著者の論点はその通りだと思う。だけど現実の世界は大概が「結果責任」である。銀行が潰れれば、頭取は道義的、民事的責任はもちろん、多くは刑事罰まで課せられる。戦争で負ければ、戦争責任は避けられない(逃げおおせる者もいるけど)。

この本の議論と、「結果責任」が支配的な現実とでは、双方にかなりの落差があるように感じられる。著者の論を現実に適用するには、この落差をどう埋めるかが課題であろう。研究者の試論・論文であり、われわれ一般読者には分かりやすい議論とは言い難い。