年末年始まとめてご挨拶

2件のコメント

2011年報告

 1~3月にエチオピア・ミドルアワシュ地方を歩き、現生人類(ホモ・サピエンス)の祖イダルトゥ長老とその遠い遠い親戚筋のルーシー姐さん(アウストラロピテクス)が生きていた時代をしのびました。ついでに人類の「出アフリカ」のコースと目されるジプチから紅海へ。

6月に北京郊外の周口店に立ち寄り、北京原人の住居(洞窟)を見る。人類の足跡を訪ねる旅は、いまだ道はるか。

 7月に尾道から今治まで「しまなみ海道」をサイクリング。

 3月と11月、地震津波の被害地を2度にわたって見学。

 

 ヒトの進化、特に最近は「心の進化」「脳の進化」に興味を持ち、関係本を中心に読んでいたら、自分自身がアタマの病気(ケガ?)にかかってしまいました。検査の結果、硬膜と脳との間が出血してる、放置したら障害が出るとの診断。1泊2日の手術で完治しました。おかげで年末年始は「冷温停止状態」ですが、3月には再稼働を目指しています。

ヒトは生まれながらの詐欺師なのだ!

5件のコメント

以下は前回書いた「ルーシーの子供たち」からの抜粋・要約。

 ポールは若いチャクマヒヒでスコットランドの研究者が観察していた。ある日、ポールはメルという大人のメスが大きな草の根を掘るのを見ていた。ポールはあたりを見まわした。近くにほかのヒヒはいなかった。ポールは突然わめき声をあげた。ポールの母親が飛んできて、メルを追い払った。ポールはメルが置き去りにした草の根を食べた。

 ポールは、子供がいじめられていると母親に思わせて、まんまと食物を手に入れた。このような例は多い。「下位のチンパンジー・オスが発情期のメスに刺激されペニスを勃起させたところに、ボスが来た。下位オスはペニスを手で隠し、ボスから攻撃されずにすませた」「メスのマントヒヒが、ボスの目を盗んでお気に入りの下位オスと仲良く毛づくろいする」

 これら欺瞞者たちは他人の頭の中で進行していることを想像して、行動している。メスのマントヒヒは愛人オスと毛づくろいをしているところを見つかったら、ボスから攻撃されることを知っている。勃起させたオスもボスの心を読んでいる。2頭とも「生まれつきの心理学者」なのである。

 「欺瞞は自然の芸術である」。昆虫は植物を模倣し、無害なヘビは猛毒ヘビの外見を模倣し、ネコは毛を逆立てて、自分を大きく見せかける。

 ミシガン大学のリチャード・アリグザンダーの言。

 「われわれの日常生活に欺瞞がどれほど浸透しているかは、自分がたびたび風呂に入り、ひげを剃り、デオドラントをつけ、化粧をし、つけまつげをつけ、肩パッドなど身体を隠したり実物以上に見せかけたりする服を選び、踵を高くした靴をはき、口にミントを入れ、礼儀正しい微笑を浮かべて職場に入っていくか、を考えれば明白だ」

 人間の脳のはたらきは進化の軌跡の産物である。アリグザンダーによれば「グループ内、そしてグループ間の尽きることのない激しい利益の対立を燃料として、知性はどこまでも暴走する」。「人間が、それに先立つ他の生き物をはるかに引き離した存在になった理由の説明として、ただ1つ納得できる方法は、人間だけが、自然界において人間の主な敵になったと想定することである」

 「良かれ悪しかれ、人類が人類をつくりだしたのだ」

――類人猿や大昔の人類だけのことではない。なんだか現代の自分自身を見ているような気分にさせられる。複雑な社会生活を生き抜くために知能が発達し、他人の心を読み、欺く能力に長け、あるいは自分では意識しないほど自然な欺瞞を身にまとい・・・

♪作り笑いがうまくなりました♪~と中島みゆきが歌っていた。

 これも周りが敵だらけの人間社会を生き抜くための擬態なのでしょう。

ドナルド・ジョハンソン著「ルーシーの子供たち」

1件のコメント

 1974年、米国人類学者のジョハンソンはエチオピアのハダールで、有名な人類化石「ルーシー」(アウストラロピテクス)を発見した。それから12年後、彼はタンザニアのオルドヴァイ渓谷で、今度はホモ・ハビリスを見つける幸運に恵まれる。

 ハビリスはアウストラロピテクスとホモ属(エレクトス、サピエンス)をつなぐ中間種と見られている。

「アウストラロピテクスが類人猿(チンパンジー)と袂を分かつ原因になったのは、直立歩行だった。頭は本質的に変わらなかった。次にホモ・ハビリスがアウストラロピテクスと袂を分かつ原因となったのは、頭、とりわけ脳だった。身体は本質的に変わらなかった。ホモ・ハビリスがホモ・エレクトスになるときに、身体はわれわれホモ・サピエンスと同じになった。同時に脳も拡大したが、それでもわれわれの3分の2だった」

「ルーシー」で一躍名声を獲得した著者は、その発掘の一部始終を書いた著書「ルーシー」(このブログのサイエンスブック参照)が世界中で売れに売れ、カリフォルニア大学に人類起源研究所を設置して自ら所長に収まった。

   その後、エチオピア側の国内事情もあってハダールの調査が頓挫し、もんもんとしていたジョハンソンは、高名な人類学者一家リーキー一族の“テリトリー”と化していたタンザニアのオルドヴァイ渓谷に乗り込んだ。チームには当時大学院生だった諏訪元氏も加わっていた。

   リーキー一族による長年の発掘調査で、めぼしい人類化石は掘り尽くされたと思われていたオルドヴァイだったが、著者たちはまたまた人類進化史に一石を投じる発見をやってのけたのだった。

   さすがは強運の持ち主ジョハンソン、やや皮肉っぽく言えば“化石ハンター”としての名声を不動のものとした。

    私は、一昨年にオルドヴァイを、今年2月にハダールを眺めてきた(このブログの「ケニア・タンザニア」「エチオピア・エジプト」参照)。ともに大地溝帯の中、樹木の乏しい高温の半砂漠地帯である。強烈な直射日光の下での発掘は、消耗する肉体労働であったろう。

    著者たちが発掘作業の合間に見物に行った、オルドヴァイ西方にある「動く砂丘」に、私も上ったのを思い出した。ほんの小さな砂丘なのに消滅もせず、千年間以上にわたって1日4センチほどのペースで風下側に移動している不思議な砂丘だった。

 追記 この本の記述のまま1日4センチの移動と書いたが、最近の5年間で200メートル移動した。1日で10センチ前後に相当する。

これも外来語?

コメントを残す

 片山一道著「古人骨は生きている」の中で、著者がちょっとした疑問を発している。

 英語のskeletonize(直訳は骨にする。「概略を記す」の意)は、日本語ではちょうど「骨子を説明する」に当たる。「果たして偶然のなせるわざであろうか」

 「概略を説明する」の意に日英がそろって「骨」を用いているのは、偶然に過ぎるのじゃないか(とアタシも思う)。肉体の中にあって目に見えない骨なんかより、似たものでは樹木の幹の方がなんとなく適当だと思うし、全体を大まかに見るという意味でなら風呂敷に包んだ形で全体を表す方が適切じゃなかろうか。「大風呂敷につつんで見る」とか・・じゃ変か?

 実を言うと、日本語には外国語(特に英語)を直訳したような表現が、日常語としてたくさん使われていることに、以前から疑問に思っていた。

    bullet train(弾丸列車)、add fuel to the fire(火に油を注ぐ)、cold(心が冷たい、よそよそしいの意で)、put~on ice(凍結する、事案を保留するの意)、be on thin ice(薄氷を踏む、危険な場面に臨む意)、be up in the air(物事が宙に浮く)、recharge one’s battery(充電する、元気を回復するの意)、lend me a hand(手を貸す)、gathering dust(ほこりをかぶっている、使用していないの意)、we lick your team(いちころさ)のlick(なめる、頭から馬鹿にしてかかるの意)、shit(くそっ、罵声)、big mouth(大口をたたく)、avoir bon nez(鼻が利く、仏語の直訳はよい鼻を持つ)、Tu es un homme(お前は男の中の男だ!男らしい男の意)、la vie en rose(バラ色の人生)。

   その他、hot spring(英)sources chaude(仏)が温泉。dream(英)reve(仏)が、寝ていて見る夢の他に、将来の希望を表すときの「夢」にも使われる。まだまだあるのじゃなかろーか。

   いずれも、あまりにピッタシカンカン、直訳なように感じる。オリジナルな日本語から欧米に輸出されたとは思えないから、外国語から日本に輸入されたのではないだろうか?それは西欧の思想や物が大量に輸入され、翻訳され言い換えられた明治期では?・・・多分。

   それともそれ以前から「鼻が利く」とか「骨子」「二十歳の夢」「なめるなよ」「大口をたたくヤツ」「くそったれ!」なんて表現が日本語の中にあったのかしらん?たんに偶然の一致、類似なのだろーか?

   分かる人がいたら教えて!

 追記 ネットで語源辞典を調べたら、「薄氷を踏む」は中国に出典があるらしい。be on thin ice(薄氷を踏む、危険な場面に臨む意)は東西の偶然の一致かもしれない。

片山一道著「古人骨は生きている」

コメントを残す

 自称「骨屋」。古い人骨の形や大きさを計測し、古今の骨格標本と比較する。時には顕微鏡やX線を使って調べ、研究するのが骨屋の仕事。

 従来、古人骨の研究は、日本人の由来だとか人間グループの系統を研究するのが主流だった。例えば、縄文時代以前から人間が住み着いていた日本列島に、弥生時代以降にたくさんの渡来人が渡ってきて混血した。あるいは日本人は大陸のどこそこの人に似てるとか似てないとか・・・等々。

 著者は、こうした系統の探索からは距離を置き、その骨の持ち主だった当人の生活の跡をその骨から知ろうとする。生前に病気をすれば、骨に異常が残る場合がある。骨折を伴うような大けがをすれば、治癒後もはっきりと痕跡が残る。労働の結果、骨に独特の形状が生じることもある。

 この本自体は、そういった専門的な内容にはさらっと触れるだけで、骨屋としての日常の体験を軽ーいタッチで綴った。いわばエッセー集。角川書店の本のPR誌「本の旅人」に2年間にわたって連載したものをまとめた。1回あたり原稿用紙10枚ほどの分量なので、気軽に読める。硬い骨ばかりを扱う研究者にしては?なかなか柔らかな文章を書く。骨をテーマにしたミステリーも大好きだそうだから、むべなるかな、である。アタマがやわらかい。

阿部勝征著「巨大地震」

コメントを残す

 副題に「正しい知識と備え」とあり、帯に「その日はいつくるのか!!切迫する足下の危機 地震の顔がいま見えてきた」とある。

 「地震の顔」が本当に見えているのかどうかは、怪しいもんだが、今現在の(とは言ってもこの本が出版されたのは、神戸大震災2年後の1997年)地震の知識・研究が一般読者向けに解説されている。ちょっと教科書的だが、世界各地の大地震の例を取り上げ、著者自身の観測経験なども織り交ぜて、分かりやすい。

 今では断層活動が地震を起こすことは常識のように語られているが、1950年代までは、「断層は地震の原因」よりも「地震の結果」であると考えられていた。

 平行で逆向きの力が断層運動を引き起こし、それが地震となることを数学的に導き出したのは日本の研究者だった。ダブルカップル理論。現在の地震学は、基本的にはこの理論の上に成り立っている。

 そーか、そうだったのか。そんなすごい、基本的な理論だったのか。1970年ころ、研究者たちが、地震波の到達した地域を四象限に分けて、初動の波が「引き」だの「押し」だのとやっていたのは、ダブルカップル理論に基づいたものだったんだ、と今さらながら理解する(今さら遅いねぇ)。

 「地震の顔が見えた」という帯の売り言葉とは裏腹に、地震というやつは、人間にはなかなか手に負えないやっかいなやつだ、の感を深くした。

出久根達郎著「日本人の美風」

コメントを残す

 「献身」「つつしみぶかい」「勤勉」「忠実」「粋」「恥を知る」「義理堅い」「清貧」「陰徳」エトセトラ・・・著者はこれらを日本人の美点として挙げる。

 大震災の際に、家族を亡くし食料も乏しい中、おとなしく列を作って援助を待つ日本人の行動が、外国メディアでも世界に紹介され一種の日本人論として語られた。カナダの知人から「同じ日本人として鼻が高い」と言った主旨の手紙をもらったこともある。

 たしかに外国の災害や難民のニュースには、救援物資を奪い合う姿が映し出され、日本人の「おとなしさ」「つつしみぶかさ」「従順さ」が際だっているように思える。

 先進国と途上国と、日ごろの経済的な差も反映しているだろう。でもそれだけでない。同じように豊かでも欧米人なら、もっと「俺が」「俺が」と自己主張しそうに思う。

 

 「古本屋のおやじ」を自認する著者が、本に現れた日本人の美点にまつわるエピソードを7編にまとめて紹介した。その日の暮らしにも事欠く樋口一葉が、借金の算段をして香典代を工面した話は、古今の書籍に通じた著者ならではの「その後のエピソード」もある。

 ところで著者はこの本のタイトルを「ニッポンジン」ではなく「ニホンジンの美風」と読んでほしい、と述べる。

 長谷川如是閑によると、「ニッポン」は明治半ばころに軍人が声高に唱えたもので、「ニホン」では勇ましく聞こえないからだそうだ。軍人が官憲や教育者に強制して、ニッポンを広めたという。そーいや、あの黒い街宣車もよく「ニッポン」を、がなり立てるなぁ~。

 

 俺個人としては、これら日本人の特徴が「美風」と呼べるようなプラス面だけなのか、疑っている。例えば「従順さ」も「義理堅さ」も、時にはヘンな方向に走ることがある。

 例えとして適切かどうかは分からないが、カンボジアも周辺国の中では仏教心の篤い、おとなしい国民性で知られる。そのカンボジア人がキリング・フィールドと呼ばれる大虐殺を起こしてしまった。指導者のポルポトも凶悪とは正反対の、理想追求型の人物だったらしい。

 真面目で勤勉なドイツもナチスを生んだ。各地で残虐な?殺戮を繰り返している過激派も、ふだんは清貧や奉仕、滅私的活動で住民の支持を集めていたりする。

 一方でわれら日本人旅行者には、軒並み詐欺師とインチキ男ばかり、と思いたくなるような国(例えばインド。多分に俺の狭い偏見だけど)では、案外に凶悪事件が少なくて、歴史的にも侵略するよりも侵略されることが多かったりする。

 その土地や文化がはぐくんだ国民性の違いはある。でも、良い国民性、悪い国民性、といったものはない。それは時には「美風」になり、時には「悪風」にもなるんじゃなかろうか。