カレンの人々と話をしていて、気にかかることが出てきた。

 第2次世界大戦の末期、1942年3月から1945年の日本の敗戦まで、日本軍はアンダマン・ニコバル諸島から英国軍を追い出し、この地を2年余りにわたって占拠した。

 私もこのことくらいは、事前に知っていた。しかし、日本軍がこの地でどのような行為をしたのかまでは、恥ずかしながら無知だった。

 私の興味は人類の進化と拡散であって、最近の歴史ではない。ただ、出発前から気にかかっていたことがあった。

 以前、ネット上で読んだのだが、この島を訪れた日本の旅行者が「激しい反日感情にさらされた」と書いていた。どうしてだろう? ちょっと気にかかってはいたのだが、頭の片隅に押しやって、ほとんど忘れかけていた。

 サム君の親戚などカレンの人たちと話しているうちに、戦時中、カレン民族は日本軍に協力したこと。その一方で、日本軍は他の現地の人々を多数殺害したらしいことが、分かってきた。

 数日後の日曜日、カレン民族の村でカレンの若者同士3組の結婚式が行われた。私はそのうちの2つの結婚式に、サム君の案内で顔を出し、写真を撮らせてもらった。

花婿花嫁を囲んで、記念写真を撮るカレンの人たち

 花婿の実家に集まった参列者が、結婚式場の教会(カレン民族はカトリックを信仰している)に移動する際、同じ車に乗り合わせたサム君の縁者の1人が、私にしきりに話しかけてきた。なかなか英語で話し合うには難しいテーマだった。

 彼は訴えるように言った。

「この地のカレン民族は、政府からネグレクトされてきた。日本はカレンのために何もしてくれなかった。あなたはこのカレン民族の窮状を日本に伝えてくれるのか?」

 要約すると以上のような内容だった。

 私は単なる旅行者である。カレンの村を訪ねたのも、たまたまである。あくまで旅行者としてこの地に立ち寄っただけで、カレン民族の取材のためではない。私は、彼の問いかけに返事に窮した。

 サム君自身は、一切そういった話はしなかった。

今も残されている日本軍のバンカー

 サム君の実家の裏山には、日本軍が建造した分厚いコンクリート製のバンカー(地下の掩蔽壕=えんぺいごう)が、数カ所残っている。暑い日差しの中、彼と彼の縁者たちの案内で裏山を歩き、日本軍のバンカーを見に行った。

 先を歩くサム君は、しばしば後ろをふり返って「Are you OK ?」と、こちらを気遣う。たしかにこの暑さである。老体には、サム君の機敏な動きについて行くのは、なかなかしんどい。

 彼は道々将来の希望を話した。私のアンダマン滞在中、彼は警察官採用に応募した。この国では警察官のステータスが高い。たいてい体格が良く、一見して一般のインド人より威風堂々、時には威張っているように見える。給料は1ヵ月1万5千ルピー(2万5千円)くらい。日雇いの肉体労働者の賃金(1日300ルピー=約500円)に比べると、はるかに優遇されている。

 その採用結果が2、3ヵ月後に届く。警察官が駄目だったら、ダイビング・ガイドの勉強をしたいと考えている。

 貧しいカレンの人々にとって、警察官やダイビング・ガイドは、豊かになるための限られたチャンスなのだ。

 現在、カレンの人々が差別を受けているのかどうかは、はっきりしない。でも、日本軍の敗退後、彼らが陰に陽につらい目にあったであろうことは、うすうす想像ができた。