アンダマンの州都ポートブレアに戻り、常宿としていたロッジの主人(通称ボス)に聞いてみた。
「私はアンダマンの歴史について何も知らないでここに来た。日本軍がここで多数の島民を殺害したというのは本当か?」
ボスが答えるより先に、横からおカミさんが答えた。
「殺された島民は千人を下らない。ボスの祖父も殺された1人です」
私は思わず「I’m sorry」と言ってしまったけれど、ボスは「それは、あなたの問題じゃない」と一蹴した。
アンダマンでの日本軍の行動をもう少し詳しく知りたい。何か当時を伝える書類または書物のようなものはないか? 島には教科書を扱う本屋はあるが、一般書はほとんど置いていない。
「図書館に行けば、その手の本が読めるだろう」
ボスのアドバイスで、図書館に行った。職員が2冊の本を選んでくれた。
「A Regime of Fears and Tears」(恐怖と涙の時代)、「Japanese in the Andaman & Nicobar」(アンダマン・ニコバル諸島の日本軍)
この2冊によると、以下のようだった。
―― 日本軍がアンダマンに来て3日目の1942年3月24日、2人の日本兵がアバディーン村(今のポートブレアの中心街。わが宿もここの一角にある)に遊びに来た。2人は路上にいた鶏を追いかけて民家に入り込み、それをつかまえた(一説には女性にいたずらしようとして、民家に侵入したとも伝えられる)。
これに怒った地元の若者の1人ザルフィガール・アリが、2人に目がけてエアガンを発射した。2人は逃げて無事だったが、この報告を受けた日本軍は付近の民家を焼き払い、翌朝までにアリを出頭させるよう住民に命令した。
友人や兄弟にかくまわれていたアリは、後難を恐れた住民や家族の説得で日本軍に出頭した。
25日。全住民が集められ見守る中、村の広場に引き立てられたアリは、両腕の骨が折れるまでねじ曲げられ、拷問を受けた後、銃殺された。「アジアの解放者」を名乗った日本軍による最初の犠牲者だった。
その後、いったんはこの地を撤退した英国軍など連合国の反撃が、このベンガル湾でも激しくなった。ポートブレアに向かっていた日本の船が、次々と攻撃を受け、沈没した。連合軍の攻撃は正確で、あきらかに日本軍の動きを事前に察知していた。
「島民の中にスパイがいる。連合国に日本軍の情報を伝えている者がいる」
疑心暗鬼にかられた日本軍は、42年10月ころから、スパイ狩りを始めた。英国にシンパシーを抱いている容疑で、島民を次々と逮捕した。アンダマンの行政官、警察官、医師、教師など島の有力者が多く含まれていた。彼らは激しい拷問にさらされ、2度と刑務所の外に出てくることはなかった――
島民への見せしめの意味もあったのだろう。人事不省に陥った島民を、日本兵が繰り返し投げ飛ばし、地面にたたきつける。「まるで洗濯女が、洗濯物を頭上に振り上げ、地面にたたきつけるようだった。島民は、これが日本の柔術というものであることを知り、恐れた」。気絶状態の人間を、まるでボロ切れのように、繰り返し投げ飛ばしたのだろう。
アンダマンを徘徊していて、「Japanese’s coming , black out coming」のフレーズを、全く違う場所で2度耳にした。多分、この言い回しが、慣用句のように使われているのだろう。「Black out」が何を意味するか? 単なる灯火管制のことを指すのか、暗黒社会の到来を意味するのか、私の英語力では判断がつかない。どちらにしろ、日本軍のアンダマン支配にかかわる表現であることは間違いない。
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